「プールU(2)」

生徒会争乱物語:神野椿、長森凛
(「プール」の続き)



結局、椿は一時間も泳がないうちにタウンしてしまった。

疲れを癒すためにプールサイドにある、赤と青のベンチに座り、凜が泳いでいるところをぼうっと眺める。
休日の昼間といえど、屋内プールにはさほど人がいなかった――遊びたい人はレジャーランドに行くのか、八コース合わせて十人前後しかいない様は、寂れた場所、と認識するに容易い。
そんな、凜のお気に入りの場所。

「……ふぅ」

ふと。
近い所で息をつく音が聞こえた。
緩やかに首を右へと傾けると、塩素混じりの水を滴らせる、水泳少女の姿が。

「やっぱり椿はもやし」
「……なんか嬉しそうですね。あと僕は、」
「もやしと呼ばれたくなければ、もう少し体を鍛えて」

今回ばかりは言い返せなかった。自分の貧相な体を見下ろし、ため息をつく椿。
夏だというのに肌色というよりも白色に近い体はほっそりと痩せていて、良く言えば華奢、悪く言えば弱々しい。

「そういうのはあんまり好きじゃないんですけど」
「そういうの?」
「体を鍛える、とか……」
「ふうん」

呆れる凜。
椿とは対照的に、競泳水着の上からでも分かるくらい、鍛えられている体。特に紺色から伸びる足は細く、余計な肉がついていないことが椿にも分かる。

「……なに?」

思わず見とれてしまっていた。眉根を寄せる凜に、慌てて首を振る。

「な、なんでも。それより凜さんも休憩ですか?」
「少し。無理して泳いでも仕方ないから。部長が、一時間に一回は休めって」

言いながら、隣に腰を下ろす凜。
プールに広がるもわりとしか空気に、ミントを口に入れたような感覚が混じった。右手で短い髪を押さえる様子をちらりと見れば、凜も同時にこちらを向いていた。

「り、凜さんは、いつもここに来てるんですか?」

不審がられる前に、適当な話題を振ってみる。

「来てる。職員も、私の顔は覚えてるみたい」
「すごいですね」
「私のような人は珍しいって」
「かも、しれないですね」

椿も若者の流行りには疎いが、少なくとも市内プールに入り浸る女子高生は珍しいことは分かる。
だからつい、尋ねてみた。

「凜さんは、さびしくないんですか……?」

凜は小さく首を傾げた。

「……? なんで寂しいの?」
「え……だって、いっつも一人、みたいだから。寂しくないのかな、って……」
「寂しいと思ったことは一度もない」

断言する言葉は、空気の篭った空間でもしっかり聞こえた。
いつしか椿は凜の方へと体を向け、水と氷の入り混じったような目を見つめていた。

「椿は、泳ぐだけの何が楽しいのか、って思ってるでしょ」

咎めるような雰囲気はなかった。正直に首を縦に振ると、凜は前を――彼女の場所を一瞥して、続ける。

「最初はそう思うかもしれない……でも、泳ぐのは、ただ泳ぐだけじゃない」
「泳ぐだけじゃ、ない?」
「泳いでる間、色々考える。どうやったら早く泳げるか。どうやったらもっと体力がつくか。……それだけじゃない。今日の晩御飯のこととか、明日の学校のこととか」
「……」
「そしてたまに、何も考えないで泳ぐ。それで一休み」

凜が立ち上がった。無表情の中に一滴だけ、親愛の気持ちを含めて、頬を少しだけ緩める。
それは自然な動作でもなんでもなくて、不慣れな笑顔。
けれど、

「そういう楽しさを、椿にも知ってほしい」

――だからこそ、紛れもない彼女の本心だった。

「……僕……ですか?」
「椿がもやしなのは知ってる」
「ひどい……」
「でも、こうしているだけで、いつもより楽しい」
「……」
「一緒にいるだけで楽しい。ただそれだけ」

どこかで聞いたセリフのアレンジと共に、凜は背を向けた。
返事を待とうともせず、再び泳ぐべく、プールへと歩いていく。
椿はつられるように立ち上がった。一瞬だけ躊躇って、そして彼女の隣に並ぶ。
こくん、と小さく頷く。

「少しは……僕も、頑張って泳いでみます。……もやしですけど」
「そう」
「僕も、楽しいですから」

凜さんを見ているのは。――とまでは言わなかった。言わなかったが、凜は少しだけ目を細めて、僅かに頬を紅く染めて、ありがとう、と小さく呟いた。



執筆年月:2012/03/05

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