「はじまりは午後9時の灰艶」





今にして思えば――と前置きをしたくなる話なのだが、しかし喜多見柚がそのことについて自分から語ることは絶対に有り得ないだろう。
それはプロデューサーと約束をしているからであり、柚にとって恥ずかしい過去であり、紐解くべきではない思い出話だからだ。
だからそう、小説でいう三人称視点のようにその時の柚の心情を説明するならば。

あの日、北条加蓮の姿を見ていなければ、柚はとっくにアイドルをやめていた。


――回想 2011年12月

――事務所 廊下――

(面白くなーい……)

喜多見柚はプロデューサーから逃げ出した。
本人の名誉の為に述べておくならば、今日の分のレッスンはちゃんとこなした。……が、明らかに手抜きだと判断された為か、トレーナーからプロデューサーへと連絡が行き、プロデューサーと出くわした柚が気配を察知して脱兎となった。
2時間くらい事務所内を駆けまわって、プロデューサーが事務所を退社するのを恐る恐る確認して、ほっと一息をついたところで。
帰ろうと思ったけれど、どうせ帰ってもやることもないので、柚はなんとなく事務所内を歩いていた。
何か面白い物の1つでも見つかれば御の字だけれど、残念ながら、世の中はいつも柚の理想からかけ離れている。

『面白いことを探してるの? じゃあさ、あなた、アイドルにならない?』

クリスマスイブの夜。そういって柚を拾ったプロデューサーは、素敵な笑顔を見せた。
ついていってみようかな、と迷いなく思わせるくらいには、素敵な笑顔だった。
それに、アイドルにならない? という言葉も、すごく楽しそうに聞こえた。
だが、話というものは聞くから愉快に聞こえるのであって。
自分の話となると、また別の話となる。

(ただ走るだけなんて、何が面白いんだろ……)

要求してくるのは走りこみだの、あーあーあーあーあーをひたすら繰り返す発声練習だの、単純な作業ばかり。
面白くない。学校の勉強よりも、面白くない。
柚の思うアイドルはこんな物じゃなかった。もっとこう、キラキラと輝いていたり、楽しそうにしていたり、笑っていたり。それに、踊っていたり、歌っていたり。柚はそういうことがやりたいのだ。こんな面白みのないことではなくて。
だから柚は、ふてくされながら逃げ出した。

(やめちゃおっかなあ)

アイドルになる理由なんて、これっぽっちもないのだし。

(また、面白いこと、探しにいこっかなぁ)

やがて柚は、空き部屋の並ぶ廊下へたどり着いた。
プロデューサーに連れられた時に説明を受けた覚えがある。
まだ複数のレッスンスタジオを確保するようなお金はないから、ここで自主練しているアイドルもいる、と。
……自主練。
今日もやらされたあの「単純作業」を思い出してしまう。胃の中のムカムカがますます高まっていく。

(…………あれ?)

その時だった。
空き部屋の1つから物音が聞こえた。
とん、とん、と何かを刻むような、物音。
……一瞬にして柚の体感気温が5度ほど下がった。
現在時刻21時33分。
そろそろ"出る"頃合いだろう。
鋭敏となった柚の耳は、次に荒い息遣いを捉えた。

「え、う、ウソだよね?」

あ、そっか、アイドルってよくドッキリとかやってるからこれその為のレッスンかー、なんだレッスンも案外悪くないじゃん♪

「んなわけあるかー!」

柚は小声で叫ぶ。でも、足は勝手に動いてしまう。

(え、ちょ、やめて!?)

自分に自分で懇願しても、誰も聞いてくれる筈もなく。
いっそ叫んでしまえば解決するかもしれないけれど、口の筋肉だけはホラードラマの主演女優になっていた。

「……〜〜〜!」

やがて柚の体は、物音がするドアのすぐ前に達する。その間にも扉の向こう側からは、何かを叩きつけるような音と、必死さを窺わせる息が聞こえ続けている。
喉で唾をならす余裕すらないままに。
恐怖よりも、潜在的好奇心が上回ってしまって。
そぉ〜っと、扉の隙間から部屋の中を覗きこんだ。
そこにいたのは。

人間の女の子だった。

「っっ!! ……あ、あれ……?」

喉がひしゃげるような声を出しかけた柚は、しかし目をこすり、その人に見覚えがあることを知る。
そこにいたのは……名前は覚えていないけれど、同じ事務所のアイドル候補生だった。

「はぁ〜〜〜〜」

身体から力が抜け、べちゃり、と崩れ落ちる。
そもそも、レッスンスタジオが確保できないから自主練用の部屋を用意している、という情報を持っていて、どうしてこの可能性に至らなかったのか。引きつり笑いを浮かべ、上がらなくなった腰をさすりながら、柚はぼーっと前を見ていた。

「練習してるのかな……?」

少女がステップを踏んでいた。
音源がないから、何に合わせているかも分からない。
たん、たん、と足音が聞こえるだけの空間。それは夜遅くということもあって、とても異質に思える。

「…………」

目を離せないままやがて2分ほど経過した頃、異変が訪れた。
少女は今まで以上に荒い息を吐いて、先ほどの柚みたいにどさっと崩れる。
バン! と、思わず耳を塞いでしまうほどに大きな音がした。

「わ、わっ……」

少女が気を失ってしまったのではないか、いや死んでしまったのではないか、なんて――心臓が高鳴るも、柚は口をぱくぱくしているだけで何の行動に出ることもできない。
少女が、ごろり、と寝返りをうつように転がり、こちらを見た。
目が合った――ような、気がした。柚は慌ててドアの横へと張り付く。
顔から首筋から大量の汗が流れ出た。超高速で瞬きをしながらも、柚は再び、そろぉ〜、っと室内を見た。

少女は荒い息を吐いて、じいっと床を見つめている。
とうとう物音がなくなった空間で、息遣いがはっきりと聞こえてきた。
5分ほど経過しただろうか。重苦しい沈黙に柚が耐えかね、ごくり、と唾を飲む。まるでそれがスイッチになったかのように、少女は立ち上がった。脆弱な糸にでも吊るされているかのように不安定な足取りは、痛々しくもあり、けれど、どこか力強さも発していた。

「…………」

少女が踊り始める。けれど3分ほどしてまた崩れ落ちる。苛立ちの表情を浮かべたまま5分を挟む。立ち上がる。
少女が踊り始める。それでも2分半ほどしてまた崩れ、掌を拳に変え、やがて身体に鞭を打つ。
3分踊り、5分崩れ、2分踊り、4分崩れ、3分踊り、5分崩れ、

「なに、これ……」

いつしか柚は扉にかじりつくようにしてその光景を凝視していた。服が服として機能していないであろう程に汗だくの少女はそれでも手足を止めることなく、自分で自分を殴り続けるように無茶を続けていた。
だんだんと、崩れ落ちる時間が長くなっても、諦めたりしない。床をぶっ叩いてでも、足をがくがくと震わせながらも立ち上がる。とうとう壁にすがりつきながらでないと起き上がれなくなっても、眼の光が弱まることはなかった。

最初は意図が分からなかった、あの鋭い眼光。
きっとあれは、自分自身に苛立っているのだと。
3分しか踊れない自分を蔑んでいるのだと。
柚は、すぐに分かることができた。
居場所が分からなくて放浪している自分を、高いところから見下ろし嘲笑っている自分自身が、今も、自分の後ろのところにいるのだから。

「すごい……」

声が漏れた。
自分の声で意識が現実に戻ってきた。
気づけば時計の短針は10に達していて、自分と、部屋の中の女の子以外に人の気配は全くしなくなっていた。

「すごい……!」

同じ言葉を繰り返す。
もうすっかり身体に力は戻っている筈なのに、柚は立ち上がろうとはしなかった。ずっとここで見ていたかった。少女のエネルギーを目に焼き付けておきたかった。きっとその少女は自分なんかと違ってつまらないからといって逃げ出すような人間ではないから。ちゃんとアイドルになろうとしているから。

「…………」

『面白いことを探してるの? じゃあさ、あなた、アイドルにならない?』

確かにこれは、面白くて、そして凄いことだ。あの人は嘘をついていなかった!

「……アタシも」

こころの奥からマグマが湧き上がってくる。ぎゅっ、と握りこぶしに力が集まる。息を吸って吐くだけで、全身にパワーが漲ってくる。

「アタシも、もうちょっとやってみよっ」

それは、誰かに向けられた言葉ではない。
敢えて言うなら、名前は覚えていないしこちらに気付かれてもいない、努力に狂う少女に向けて、約束をしたようなもの。

「もうちょっとだけっ」

足の力だけで立ち上がる。その場から立ち去る柚の足取りには、煙が見えそうなほど、活力に溢れていた。



これが、喜多見柚と北条加蓮の、最初の出会い。
否、この時の加蓮は柚に気付いていないから、出会い、というよりは……そう、一目惚れとでも称するべきか。
翌日、柚は自分の担当プロデューサーに頭を下げて謝った。もうちょっとだけアイドルを頑張りたい、と言った。それから、この日の出来事を一片の漏れもなく話したが……担当プロデューサーからは、その話は絶対に誰にもしないように、と言われ、柚は今に至るまでその指示に従っている。
当事者である加蓮にすら話していない。だから加蓮は、どうして自分が柚に懐かれているのか、全く気がついていない。

ここからは柚の知らないところの話だが――
柚の担当プロデューサーは、柚が見たものを、そのまま加蓮の担当プロデューサーへと話した。
所属当初、最悪だった加蓮の態度に悩んでいた加蓮担当プロデューサーは、初めて加蓮の本質を知ることになる。
だからこの出来事は、柚と加蓮の最初の出会いでありながら、加蓮とその担当プロデューサーにとっての最初の歩み寄りでもあった。
ある意味では、柚が加蓮の姿を見ていなければ柚はアイドルをやめていて、そして加蓮はアイドルを続けていなかったのかもしれない。

そしてこれが、柚にとって加蓮の最初の印象。
いつか工藤忍が加蓮のことを勘違いしていたように。
アイドルに対して生真面目で、努力好きの努力家だと、勘違いしていたように。
柚の中で加蓮は、ただただ"凄い人"なのだ。
例え北条加蓮という少女の底意地の悪さを知っても、"凄い人"という評価は覆らない。

だから……そう。柚は加蓮に  することは、絶対にない。


掲載日:2015年8月25日

 

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