「北条加蓮の世界」






北条加蓮にとって、世界はパステルカラーだった。
自分の知らない世界は、鮮やかな色とふんわりとした温かみに包まれていた。
それに触れたくて、いつでも手を伸ばしていた。
そしてその度に、10年間ほど放置されていた機械に触れたような冷たさを感じて、自分の空間に無関心を抱いていた。
――最初は絶望して。
次に色彩の世界を憎んで。
やがて関心を失って、どうでもいいや、と人生を投げ出した。
それがかつての自分だったせいか、今でも彼女は、時折「発作」に襲われる。

「……ん……」

それは朝早くに事務所を訪れ、レッスンの時間までソファに腰掛けていた時だった。
不意に、ぐるん、と世界が回り、一瞬だけ目に入る物すべてから色が失われて。
瞬きをした時にはもう――逆に、世界の色がドキツイ物になっていて、加蓮は反射的に目をぎゅっと瞑っていた。
閉ざされた視界の中で、ああ、またか、と思う。
またお前か、私――と。

「しつこいな……全く、もう何年たったと思ってんだか」

かつて冷たい壁に阻まれて空気を感じることすらできなかった世界に踏み出して、何年が経過したと思っている。
"彼"に救われて、どれほどの時が経ったと思っている。
もう忘れてもいいことなのに、過去の自分を振り切ることができない。
そんな「北条加蓮という人間」に、加蓮は嘲笑を浮かべた。

視界を閉ざしていると、やがて記憶の世界が形成されていく。
無機質な白の壁。血の通わないベッドシーツ。風の入らない窓。それから、自分を嘲笑うような青色の空。
逃げ出すように、そっと目を開いてみる。
色が毒となって目を突き刺した。
窓際の花と、テーブルの上のクロスと、ソファの隅のクッション。
あと、隅に畳まれた色とりどりの服。
それぞれが、そこにいる人を象徴する物達が、眼球を貫通し、脳髄へと達し、キリキリと締めあげてくる。
たった1つだけ、ちゃんとした色で見ることができるのは。
――自分の、ネイルだけ。

「私は、ここにいるんだから……!」

「ん? おい加蓮? どうした、おい!?」

反逆の言葉は、いつもより温度の高い声に遮られた。

「え……?」
「加蓮!? どこか痛むのか? 目が痛いのか!? 待ってろ、すぐ車出すから……ああクソっ鍵どこだよ!」
「……Pさん」

輪郭がぼやけていても、太陽だと知ることはできる。
慌てふためく声はいつも通りで、つい、クスっと笑ってしまった。
途端に世界がまたねじ曲がり、めまいに似た症状に歯を食いしばり――それを見た彼がさらに焦燥の声をあげていたがそれはともかく――ふぅー、と深く息を吸った時、北条加蓮の世界は元に戻っていた。
緑色と、ピンク色と、空色と、パステルカラーが、いつものように目を暖かく包み込む。

「ふふっ……もう、大丈夫だよ」
「え、あ、ああ、だい、大丈夫なのか……? って汗びっしょりじゃないか! ああもうこうなったらタクシーで」
「大丈夫だから。ね?」
「んなこと言っても――」
「大丈夫だからね?」
「……」

気怠い体でも頑張って声に力を込めてみた。
彼は――いくらか釈然としない顔を隠そうともしない。
一応ながら、ポケットを破らんとばかりの勢いの右手は、動きを止めていたが。

「ちょっと変な感じになっただけ。体調も、ほら、ピンピンしてる」
「……加蓮」

立ち上がってぴょんぴょんと跳ねて、イタズラっぽい笑みを浮かべてみせて。
彼は、神妙に頷いた。

「……分かった」
「ありがと。信じてくれて。Pさんは今来たところ? ほら、座りなよ、ここ」
「おう」
「ん。……Pさんさ、今の光景が夢みたいだって思ったこと、ある?」
「夢、か……? 夢、夢か。俺は……ないかな」
「そっか」
「加蓮には悪いかもしれないけど、ほら、毎日が忙しくてさ。あ、でもアイドルがキラキラしてる時に、たまーに思うことはあるな」
「夢みたいだ、って?」
「というか、現実なのかなこれ、って」
「私の時も、思ってくれた?」
「いや。加蓮の時は、笑顔がすっげえ綺麗すぎて、逆に、あ、これ現実だ、って思ったな」
「……そっか。なんだか照れくさいな」

加蓮は小さく笑った。それから、両手を軽く口元に当てて、もう1度、微笑んだ。

「あははっ。Pさんってば変なの」
「お前には言われたくねえよ……なあ、本当に大丈夫なんだろうな」
「しつこい」
「心配なんだからしょうがねえだろ!」

がたっ、とテーブルが揺れた。
大した音でもないし、彼の怒鳴り声なんて慣れているから、加蓮は眉ひとつ動かすことはなかった――彼はすぐに、ハッ、となって、すまん、と座り直したけれど。

「……たまにね。今が夢みたいだって思うことがあるんだ」
「……」
「Pさんの言葉を借りるなら、現実っぽくなくなる、かな。目に入る物が眩しすぎて、頭が痛くなっちゃう」
「……前に言ってたようなのか」
「普通に幸せそうにしている人たちにムカついたりしないけどね。私はいつだって、病院の窓から世界を見てきたから」
「……」
「手を伸ばしても届かない世界が、私には眩しすぎた。……ふふっ、変だよね。あれからもう、何年も経ってるのに」

加蓮はイタズラっぽく笑った。
彼女は知っていたからだ。彼が続く言葉を発することができないということを。
だから今は、口を動かし続けることができる。

「手を伸ばしても冷たい感触しかしなかった。いつの間にか手を伸ばすのをやめていた」
「……」
「……ふふっ。Pさんのせいだよ? もう人生なんて諦めてたのに、こんなカラフルな世界に連れて来ちゃって。昔の私が文句を言ってるよ」
「なっ……俺のせいかよ!?」
「うん。Pさんのせい。あははっ」
「お前なぁ……」
「Pさんが悪いんだー♪」
「……とか言ってお前、ウェディング撮影の時に俺に会うまで人生捨ててたからって涙ぐんでだだろ。あれどこの誰だよ」
「ちょっ、あれは感極まってたからノーカン!」

花嫁撮影の時の話だ。――今の彼の意地悪も、加蓮にとっては計算の内だ。
彼が趣味の悪い笑みを浮かべたところで、もうこの話は終わりだと。
後ろを向いた話はここまでだ、なんて、それは1つの合図。

「Pさんは卑怯だよ」
「加蓮にだけは言われたくないな」
「Pさんなんて私の掌の上で踊ってればいいの」
「男としてそれは御免こうむるぞ」
「……そして、たまに私の世界に色をくれたら、それだけでいいの」
「……」
「そんなにいっぱい、望まないから」
「……俺からすりゃもっとワガママになればいいのにと思うが、加蓮がそう言うならそうするかな」

よっ、と軽い声をあげて、彼が立ち上がる。

「あれ、もしかして私、チャンス逃した? Pさんの一生をちょうだいってくらい言えばよかった?」
「それとこれとは別の話だ馬鹿」
「ぶー。しょうがない、もうちょっとPさんのアイドルをやってあげようか」
「はっ、言ってろ」

それに続いて立ち上がった時、加蓮は小さな胸の痛みを感じた。
――そういえば数日前、ひねくれた性格のせいで、ちょっとばかし痛い目に遭った。
……思い出して顔がちょっと赤くなって、彼に不思議な顔をされたけれど。
それはともかくとして。
ああ、またやりすぎたかな、と近い世界を見て思う。
ちょっと嘘をつきすぎてしまったかな……最近はちょっと、唇の先ばっかりを動かし過ぎてるかな。
だから加蓮は、すぅ、と息を吸った。
そして。

「……Pさん」
「ん?」
「これからも、新しい世界にいっぱい行きたいな。……私のこと、お願いね」
「――おう。任せろ」

真心を言葉に乗せてから。
照れくさくなる物心を隠すこともしないで。
加蓮は一歩、いつもの世界へと踏み出し始める。



掲載日:2015年5月20日

 

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