〜好意的に見られる謙虚の仕方〜

 

◆ある少女がこんなことを言いました

ある少女が知識を披露したところ、先輩にほめられました。
何かの調査をしているところだったのでしょう。自分にも(少女みたいに)豊富な知識があればいいのに、と先輩は言いました。
その少女は謙遜として、こんなことを言いました。

「私は先輩のこともすごいと思いますよ。私は知識があるだけです。でも先輩は、頭が回るじゃないですか」

さて。
普通に見ればただの謙遜なのですが、この一言には、色々なものが詰まっている、良いフレーズだと私は思いました。
それを1つ1つ、解説していきましょう。

◆見えてくる少女の性格

まず分かることは、このやり取りを行った少女と「先輩」は、一定以上の良好な関係にあることです。
なぜなら、少女は自分のことを、知識はあれど頭が回るわけではないと称しました。そして知識を持つ自分よりも、知識を使える相手の方が良い、と言っています。
しかしこの発言、穿って考えてみれば、相手のことを「知識がない人」だと言っているようにも聞こえます。

この話における大前提は、上記の発言の後、これといったトラブルはなく話は進むというものです。
すなわち、少女も先輩も、穿った考えをしていない。言い換えれば、穿った考えをする必要のない関係だということが言えます。

ではその前提の上で、話を進めてみましょう。

まず少女の性格が、謙遜気味でややクールであることが分かります。
もしお調子者かなにかが同じように褒められた場合、「あ、わかるわかる〜?」と言い始めることでしょう。
そして少女は、自分への称賛について自分自身で言及していません。
例えばこのセリフの前に、一言「ありがとうございます」とつければ、礼儀正しいか、目上関係を大切にするか、あるいは慇懃無礼という可能性も考えられます。
そういった過程をすっ飛ばし、自分への謙遜、そして相手への称賛を行うということは、クール気味であること、何かと謙遜する性格だということがわかりますね。

逆に言えば。
このセリフを言った側ではなく、このセリフを聞いた側で考えると、たったこれだけのやり取りで少女の性格を判断することができるということです。
今回は文面での話ですのでピンと来ないかもしれませんが、実際の会話などでこういったやり取りを聞き、「あ、この人はこういう性格なんだ」ということを見抜ける人こそが、高いコミュニケーション能力を持っていると言えるのではないでしょうか。
さらに言うなら、例えば周囲の人のために何かしてあげたい、周囲の人の手助けをする人間になりたいと思っている人は、この見極めの能力が必須となります。相手の状況・性格を考えない上での、善行だと思い込んでいる行動は、得てして独善的となっていまいますから。

さて。
ともあれ少女の性格はなんとなく分かってきました。しかし、ここで一度、物事の見方を変えて考えてみます。

◆そもそもこれは「頭が回らない人の物言い」なのか?

前提をひっくり返しますが、そもそも、称賛された時に「私は知識があるだけです。でも先輩は、頭が回るじゃないですか」というのは、頭が回らない人の物言いなのでしょうか?

頭が回る回らない、という基準の一つに、モノの使い方があります。
例えば所有している能力を正しく使えるかどうか。思ったことを言うタイミングが適切かどうか。そして、持っている知識の使いドコロを見極められるか。
分かりやすく言うと「空気を読める」かどうか。これは知識よりも、頭の回転に依るものです。

さて。少女は先輩から称賛された時、謙遜するという手段を取りました。
謙遜するというだけであれば、頭が回るとはいえません。日本人は謙遜しがちな面があります(言い忘れていましたが、この少女も日本人です)ので、ある意味ではごく普通の、誰にでもできる反応と言えます。

しかしこの少女は、謙遜に加え、先輩を逆に称賛しています。
謙遜というのは得てして、称賛を素直に受け取らない、自分は褒められるほどではないというものですが、それに留まらず、少女は先輩への称賛の言葉を口にしました。
それを瞬時に行える人が、果たして頭の回らない人かどうか。

無論、これに関しては主観・客観で意見が変わるでしょう。
ですから、もう1つの説を提示します。

「もしかしたら少女は自分のことを、ある程度までは頭が回る人間だと自覚しているのではないか?」

自分は機転が利く人間だと、ある程度までは自覚した上で、謙遜、そして称賛の材料に使うと、いわば発言そのものが全て計算されているというケースです。
これは十分に考えられることではあります。日本人は謙遜しがちだと先述しましたが、それにしても他人から称賛を受ければ、心のどこかで良く思うのも事実。そして良く思ったことは受け入れるよう脳ができていますから、相手の称賛を都合よく解釈し、自分は素晴らしい人ではないか、と思った可能性もあります。

仮にこれが真相だとして、その上で、もう一度、このセリフを読みなおしてみましょう。

「私は先輩のこともすごいと思いますよ。私は知識があるだけです。でも先輩は、頭が回るじゃないですか」

……これが計算づくのセリフだとしても、嫌な気分はしない筈です。最初に述べた、穿った考えでもしない限り、悪い人だと思うことはないでしょう。
それは、最後に挙げる「謙遜の仕方」に依るものがあります。

◆「良い」謙遜とは?

再三述べますが、日本人は謙遜する傾向にあります。
これは日本人の共通価値観として、称賛を素直に受け止めてしまうと、図々しいと思ってしまう部分があるからです。
相手の言葉に対して、自分はそれほどでもない、と「謙虚な姿勢」を見せることが、対人関係において在るべき姿であり、称賛してくれた人への礼儀である――と、考える傾向にあるからでしょう。

しかし、同じ謙遜にも、色々な種類・受け止め方があります。
単純な話、称賛したのに素直に受け止めてくれなかったら、それだけでもイラッとしてしまうことがあるでしょう。せっかく褒めたのに、と思われる可能性もあります。
かといって、全く謙遜せず「そうでしょうそうでしょう」などと言ってしまうと、先述した図々しさが顕現してしまいます。

じゃあどうするか。
ここで私が挙げるのは「良い謙遜」の仕方です。
単純に説明するなら、

謙遜に、向上心を混ぜ込むことです。

今回のセリフを見直してみましょう。

私は先輩のこともすごいと思いますよ。私は知識があるだけです。でも先輩は、頭が回るじゃないですか」
太字の部分。「私は先輩のこともすごいと思いますよ」という点です。
一見するとこれは先輩への称賛に聞こえますが、その実、裏にはこういった意味があることが推測されます。
“自分も(すごい)先輩のようになりたい”という意味が。

すなわち、先輩への称賛は称賛だけではなく、自らの向上心の具現にもつながっているわけです。
この少女は自分のことを知識があると称しながらも、向上心を持ち、自分とは違うタイプの、さらに言えば自分とは異なる能力を持った先輩を、素直に尊敬し、向上の対象としている。しかも少女、すなわち知識を有する人にとっては、頭の回転が良い、柔軟な考えを出すことができるようになるというのは、困難なことだと想像できます。

頑張る人は愛される、という傾向にあります。
苦手分野を努力する人は愛される、という傾向にあります。
法則と言っても良いほどでしょう。
身近な人を思い浮かべてください。何か目標や課題があって、それの達成のために向上する人と、自分は苦手だからと言い訳して諦める人。どちらが好きですか?



結論としては、ただ謙遜するだけではなく、向上心を混ぜ込んだ謙遜をすることで、相手に良い印象を与えるということです。
相手を逆に称賛するというのは状況次第ですが、状況が許すなら、それも併用した方が良いかもしれませんね。
謙遜しがちといっても、やはり褒められて嫌な気分になる人は、そうそういませんから。

 

文章作成日:2013年2月3日

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