「本音が言えない女の子」





――ショッピングモール――
いつもお世話になっているPさんに、プレゼントを贈る。

……などと急に言われてもどうしろと言うのか。
確かに彼の誕生日にプレゼントをしたことくらいはある。マグカップだったり、スーツだったり、あと(藍子に唆されて作った)へたくそな料理か。どれも泣いて喜んでくれて、正直、私が贈った物なら何でもいいんじゃないだろうかこの人は、なんて少しがっかりした覚えもあるけど。
だがそれはあくまで、1年に1回やるからいい物であって、ついでに言えばこういう時に限って「誕生日にはプレゼントを贈る」という一般常識を傘にできるからハードルが低いのであって。

なんでもない日に、感謝の気持ちを伝えるという物は。

……私には、ちょっとキツイ。

「やっぱり、事前にPさんに好みを聞いておいた方がよかったり……?」
「だめだよ歌鈴ちゃんっ。こういうのはサプライズが大切だからね!」

前方ではしゃぐ2人――道明寺歌鈴と相葉夕美は、実に楽しそうだ。
アドバイザーの立場に過ぎない夕美はもちろんのこと、当事者の片割れである歌鈴は……時折、何かを想像して赤くなったり、商品を手にとって真剣な目をしていたりはするけれど、それでもずっと笑っている。
きっと気軽なことなのだろう。いやむしろ、こんなことで悩んでいる私の方が馬鹿なのだろう。

「あれ? おーい、加蓮ちゃーん!」

などと悩みふけっていたら、いつの間にか足を止めてしまったらしい。夕美が、まるで街中でたまたま顔を見た時のように、大きく手を振る。
……元気なのはいいけれどやめて欲しい。変装をしているとは言え私はアイドルだ。今も周りで、え? 加蓮? 加蓮ってあの……? という疑いの呟きが聞こえる。ゲリラライブの誘いでもしたいのだろうか。

「どうしたのっ? もしかして、まだ悩んでる?」
「加蓮ちゃんは悩みすぎですよ。いつもはズバズバって決めちゃってるのに!」

歌鈴まで苦言を呈してくる。しょうがないじゃん、と手を振ったら、しょうがなくない! とハモられた。
……歌鈴と夕美に限った話ではないけれど、相変わらず私の周りの子達は、誰も彼も素直過ぎて、少し眩しい。
それでもPさん曰く、私は、この事務所に来た時よりも幾分か明るく、そして真っ直ぐになったという。
過去の私は、どれだけ酷かったのだろうか。
……。
…………思い出したくない記憶は、封印するに限る。

「こういうのは素直な気持ちが大切なんだよ! ほら、加蓮ちゃんだってプロデューサーさんに、ありがとう、って思ってるんだよね? それを贈るだけでいいんだよ! プレゼントはついで!」

簡単に言ってくれる。むしろプレゼントを贈って終わりの方が楽なのに。

「あ、もちろんプレゼントも大切だけどねっ。ホントは手作りとかがいいんだろうけど……加蓮ちゃんも歌鈴ちゃんも忙しいから」
「そそ、それに手作りはちょっと……私には難しいっていうか…………いっ、いろいろと難しいんです!」

それでも歌鈴なら、Pさんがそれを望んでいると言えば――言う、というか、どこかでその気持ちが露呈すれば、苦手分野に挑戦していくのだろう。
そして、かつて転んでばかりだったドジっ娘がアイドルとして大成したように、成し遂げてみせるのだろう。
……後頭部を掻きながら私は2人の後ろについていった。
別に、今さらながら他人になりたいとは思わないし、北条加蓮という私を否定するつもりもないけれど、それでもやっぱり、羨ましいと思う。
同時に、どうしてここまで面倒くさい人間になったのだろう、と。
知り尽くしていることを、反駁してしまう。

「男の人へのプレゼントって言ったら、やっぱりネクタイかな? 私のPさんにも贈ったことがあるんだ。ボロボロになるまで使ってくれて、嬉しかったなぁ……♪」
「ネクタイ! で、でもっそのっどういうのがいいのか分かんないですね……Pさんの好きな柄も、あまり分からなくて……」
「うーん、じゃあ今回はパスかな?」
「そうですね。他には何かいいのないですか、夕美ちゃん!」
「なんだろ。靴……とか?」
「靴ですかっ。靴、靴……くつ?」
「これもピンとは来ないかな?」

靴か。なるほど、押し付けて「これでもっとたくさんお仕事を持ってきてね♪」と笑顔で言えばちょっとは誤魔化せ――
……駄目だ、こちらをちろちろと振り返る夕美が許してくれそうにない。
歌鈴を見習ってショッピングモール内を見渡す。少し遠いところにブランド物を扱った高級店が見えた。
高い物を贈って貸しにして誤魔化す方法。
……だから、どうして私は根本からこうなのだろうか。いい加減に嫌気が差してくる。

「加蓮ちゃんは何か思いついたー?」

口の端をひきつらせていると急に夕美がこちらを振り向いた。ああ、と適当に笑顔を作っておいてから。

「いきなり贈り物って言われても、正直ピンと来ないよ。どうせうちのPさん、お前たちがトップアイドルになることが一番の〜、とか言い出しそうだし」
「確かに言いしょ……そう、です!」
「そんなの駄目だよ! だって言われなくてもやるでしょ、加蓮ちゃんも歌鈴ちゃんも。そーじゃなくて、こう、特別感を出すことが大切なんだよ!」

難しいことを仰る。

「と、特別感……っ!」

歌鈴が改めて決意をしたところで、モールの中央広場へと到着した。
1階から4階までぶち抜いている吹き抜けには、各フロアへの案内がある。どういったジャンルのお店がどこにあるかが分かりやすく表記されており、私はこの看板の前に来るようにと歌鈴に手招きをした。2人で並んで見上げて、はぁ、と溜息が重なる。
都会という物はこういう時に少し不便だ。あまりにも選択肢が多すぎる。必要な物が分かっている時にはとりあえず大型ショッピングモールに来れば揃うよねという感覚で足を運べるのだけど、何を買うかも決めていない時には。

「こ、こんなにたくさんお店が……っ! ど、どこから回りましょうか、加蓮ちゃん!?」

奈良出身の歌鈴はまだ都会に慣れていない面がある。眉がなんとも情けない逆への字になっていた。
改めて店内の案内図を見る。歩けば見つかる、と高をくくったはいいけど、到着して既に1時間。見当すらつかないのであれば、やはりどこかで落ち着いて考えるべきではないだろうか。
……そろそろ、情けない足がヘルプサインを出している、というのもあるし。

ふと、映画館にぶらっと足を運んだら柚と忍がいた時のことを思い出した。

「……歌鈴はさー、Pさんに何をしてあげたい? アイドル以外で」

アイドル以外の話をやけに強要してきた柚――彼女の本意はともかくとして、その考え方はアリだと思う。
アイドル稼業は、日常へと侵食する。世話になっている人へのプレゼント、という1つの行為でも、どうしてもアイドルを基準に考えてしまう。
それこそ、「トップアイドルになること」ではないけど。

「アイドル以外で……ですか?」
「そ。アンタなら巫女関係になるのかな。それとも別の、こう、プライベートな部分っていうか……」
「プライベートな……プライベートな!?」

……何に赤面しているのだろうか。予想はつくけれど突っ込んだら火傷する未来しか見えない。

「私はお花かなっ」

逆隣から、夕美がわかりきった答えを返してきた。

「そうだっ。花を贈って花言葉で――」
「やだ。それやると夕美に勝てる気がしないもん」
「……わ、私と加蓮ちゃんは担当のプロデューサーさんが別なんだから、張り合うことないんじゃないかな?」
「どうせお礼を言うなら……私は、私なりにやりたいし」

勝ち負け、だけではなくて。私は私、北条加蓮。出自や経歴ではなく、私という1人の、特別な人間でありたい。
……そこまで考えると、ちょっと自意識過剰か。
でも、Pさんにとってたった1人の、替えの効かない存在ではありたいから。
だから夕美の案は、割と早く思いついたけれど、最初に却下した。

「……ね、夕美。私って何かな」
「え、え? 加蓮ちゃんって何って……加蓮ちゃんじゃないの?」
「ゴメン、端折り過ぎた。ほら、せっかくプレゼントするなら私らしくやりたいからさ。私って何かなぁ、って」
「加蓮ちゃんと言えばかぁ。うーん、何だろっ?」

右隣で、歌鈴が握りこぶしを作って頷いていた。そして、ちょっと思いついたので行って来ます! と、私たちの同伴も求めないまま、ずんずんと歩いていく。
足取りはとても力強くて、転ぶ可能性に思い至ったのは歌鈴の姿が視界から消えてからだった。
だからついていく必要はない。ああなった歌鈴は絶対に転ばない。

……そしてさらに時間が経過し、え、これって歌鈴に先越されたってこと? と気付いた時。
胸の内に、何かが燃え上がる。
勝負ではないことは知っているけれど、なんか、こう、悔しい。

「私、か」

改めて考えてみよう。北条加蓮とは何だろう。どういう人間だろう。
……考えれば考えるほどロクでもないことしか思いつかない。夕美はうーんと考えこむばかりでこれといった言葉は期待できない。よく考えれば、私も夕美も、互いのことを余り知らないのだ。
人選、ミスったかな。
思考が伝わったのか、夕美はちょっと申し訳無さそうに笑った。いいって、と手で遮りながら。

「ちょっと歩こっか。ほら、歌鈴の方は大丈夫そうだから、私に付き合ってよ」
「オッケー。加蓮ちゃんが思いつくまで、ずっとついていっちゃうよっ」

エレベーターに乗り、別に理由もなく3階で降りる。雑貨屋が多く立ち並ぶフロアは、3歩進むだけで違う色が目に入ってきて、自然と歩調が遅くなってしまう。
アクセサリか……。

「加蓮ちゃん加蓮ちゃん。今はプロデューサーさんへのプレゼントを考える時じゃないかなっ」

夕美が苦笑いしていた。少しだけ顔が赤くなったので、すたすたと足を意識的に動かすことにした。待ってよ〜、と駆けてくるお節介は無視だ、無視。

「スーツにアクセサリ……は、合わないよね」
「ネクタイピンとかは?」
「歌鈴と同じで、いいのが思いつかないよ。お父さんにプレゼントっていうことも滅多にしないんだから」

1年前だったか。父の日にそこら辺で買ったネクタイを贈ってあげたら大号泣された。
それを見て最初に思ったことが、私には"娘"という人間価値があるんだ、という判断だから。
……本当に、どこまでも救われない。

「この辺は……100円均一? Pさんへのプレゼントにはさすがに失礼かな」
「あっ、いろんなグッズを詰めあわせてみるのはどうかな!? それならハズレもないよっ」
「んー、考えとく」

早足で通り過ぎた先には、文房具屋。確かにボールペンや万年筆という選択肢もアリかもしれないけれど、Pさんは基本的に書類をパソコンで作成する。使う機会が少ない物をあげても仕方がない、と呟くと、夕美が反論した。

「観賞用っていうのもアリだよ。ほら、万年筆みたいな高い物は、使わないで取って置きたくなるんじゃない?」
「そういうものなのかな……」

スーツといいネクタイといい、私は消耗品を前提として考えている節がある。実用主義、とでも言うのだろうか。
けれど、そうか。観賞用、保存用か……。そうなるとますます頭が痛くなってくる。不慣れなプレゼントに不慣れなチョイス、どこまで慣れないことを繰り返す羽目になっているのだろうか。まるで最初の頃のアイドルみたいだ。でもそう考えると少しだけ燃えてきた。昔の私に負けてたまるか。

「でも事務所っていろんな物があるよね。今さらこの辺の……ほら、例えば写真立てとか買っても、絶対にかぶりそうな気がして」
「あっ、写真立てなら藍子ちゃんが買ってるかも! 別のがいいよっ」
「花瓶とかも、その気になれば夕美から手に入るし」
「もっと事務所に花を飾りたいな。秋になったら秋の花を持ってこよっと。加蓮ちゃんも1つくらいどう?」
「その時にね。んー…………」

いつしか話は、Pさんに感謝の気持ちを贈ることから、Pさんへのプレゼント悩みへと移行していた。
スタートラインで足踏みをするよりはマシかもしれないけど、どちらにしても目を回すような作業であることに変わりはない訳で。
だんだんと、身体に疲労が蓄積されていくのが分かる。精神的疲労がこっちに回ってきているのだろうか。
文房具屋を通り越した辺りで赤と青と黄のカラフルなベンチがあるのが見えた。よいしょ、と座り込む。途端に足へと疲労が蓄積されて、身体がしばらくは動きたくないと訴えかけてきた。

「ハァ……」
「お疲れ様ですっ、加蓮ちゃん♪ でも、こういうのも楽しいんじゃないかな?」
「ぜんぜん……。疲れる一方よ」
「そう? 好きな人に、どうやったら気持ちが伝わるだろう、って考えるの、すっごく楽しいよ! 結果だけに目を向けないで、選ぶ途中にも目を向けてみてっ。そうしたらこう、ここの辺りがぽかぽかしてこないかなっ?」

胸に両手を当てる夕美を見て、少し考えてみる。
……確かにそうかもしれない。アテもなくショッピングモールを歩きまわるのは、疲れるかもしれないけれど、苛立ちはしない。頭の中にポンポンとアイディアが湧いて、それらがすべてかき消されていって、つまり目的がなかなか達成できない訳だけれど、イラッとすることはない。
普段のレッスンならどうだ。
ムカついてばかりだ。どうして自分の身体はこうなのか、と。どうしてこれくらいのステップもできないのか、と。

「ね? 加蓮ちゃん、もっと素直になろうよ。こうしたいんだって想いに、正面から向かい合おうよ」

夕美が顔を覗きこんでくる。
素直になれ、素直になれ、というのは自他共によく言われることだけれど、こうして具体的な話になるとよく分かる。
自分のやりたいことに、正面から向かい合う。
普段のアイドルと何も違わない。この前の墓参りだって、お盆だからやったんじゃない。自分が行きたいから行っただけだ。
それと、同じ話。
それが、素直になるということ。

「加蓮ちゃんは、何がやりたい?」
「……私は、Pさんにありがとうって言いたい」
「その為にはどうしたらいいかな?」
「……何か、贈り物をする」
「何を贈ってあげたい?」
「……Pさんが、ずっと大切にしてくれる物」
「うんっ。そう考えたら、ちょっとだけ見えてこないかな。加蓮ちゃんの贈り物!」

夕美に誘導されている。そう気づいて、心の天邪鬼な部分が鎌首をもたげるけれど、今は大丈夫。本音で動ける。掌の上で踊っても、恥ずかしくなんてない。
じいっくりと考えて、やっぱり私が伝えたいのは"言葉"なのだと気がついた。
それと同時に、形に残る物を。Pさんの"永遠"になれる物を。
言葉で、永遠。
ありがとうと言うだけじゃなくて、残せる物――

「……あった!」

おっ、と夕美の期待する声、それからやけに響く足音。身体がもうちょっと休ませてと言うけれど今は構わない。
私が駆け込んだ先は文房具屋だった。さっきは何も思いつかなくて、ただ通りすがっただけの場所。今度ははっきりと、ある物を探す。
いくつか選択肢はあるけれど、外面はそれほど重要じゃない。シンプルらしく、それでいてちょっとだけキュートなそれを手に取って、勢いが無くならない内に会計を通して。
あとは、家での作業だ。
家での作業……。

「……夕美、この後ちょっと時間ある?」
「いいよっ。それ、書くんだよね?」
「事務所じゃバレるから、私の家でやりたいんだけど……その、私がちゃんとやるように、見張っててくれる?」
「分かったよ! それに加蓮ちゃんのおうち、ちょっぴり気になってたんだよねっ」
「……普通の家だよ」

私が買ったのは――少しだけピンクの入った、便箋。
言葉を、形に残すことができる物。



□ ■ □ ■ □



――翌日 事務所――
午前2時までかかった。笑いたければ笑えばいい。

翌日、私たちはPさんを小会議室へと呼んだ。
私も歌鈴も午後から仕事なので、しっかりと、仕事ではないことを告げておく。あくまでもプライベートのこと。個人の話だということ。

「あ、あのっ! えとっ! ぴ、Pさん! これ……わ、私からの、でしゅ!」

たじたじでかみかみなドジっ娘巫女が先に動く。両手で持てるラッピング付き小箱を、おう? と疑問混じりに受け取るPさん。
中から現れたのは、設置型の時計だった。黒を基調としたシックなデザイン。目立たない程度にレプリカの金箔が散りばめられている。それでいて時計の針がぐねっと曲がった形をしていてユニークだ。
腕時計だとちょっと(気持ち的に)重たいから、こうしたか。当たり前に身近にあって、けど無くてはならない物。
考えたね、歌鈴。
こんな大人っぽくてお洒落な物、どこで見つけてきたのよ。

「時計……?」
「あの、私、……すぅー……はぁー……いつも、Pさんにお世話になってますから。これは、感謝の印、です!」

言えたっ……と、小声で歌鈴。
しばし目を瞬かせていたPさんだけれど、やがて意図を理解したらしく、ありがとなぁ、とすごく優しい声で言った。ムカつくくらいに。
……これくらいでムカついていちゃ話にならない。歌鈴がぐしぐしと撫でられていて、はわぁ、という蕩けた声が聞こえたけど知るかそんなの遠い世界の話だ。
次は、私の番。
私の世界の話。

「Pさん。私からも、これ」
「加蓮もか。今日って、何かあったっけ?」
「何にもないよ。何にも」
「はいっ! いつもお世話になってるPさんに、ありがとう、って言いたくなって、私と加蓮ちゃんと、あと夕美ちゃんで、探しに行ったんです!」
「そ、うか。……ははっ、こっちこそありがとなぁ、加蓮、歌鈴。すごく嬉しいよ」
「もう。Pさんは涙もろいんだから。はいこれ、あげる」
「ああ。……やけに軽いな。これは……?」
「手紙。……大切に取っといてよ?」

……ああもう、逃げ出したい。Pさんの絶妙な反応に、今さらながら別の物にしておけばよかったなんて思って。
ううん、これは私の本音だ。
逃げることも恥ずかしく思うこともない。
胸を張ればいい。
……。
…………でも無理!

「ほら歌鈴、渡したんだからもう行くよ! 午後からレッスンでしょ、予習でもしよ!」
「わあっ、まま待ってください加蓮ちゃん! あのっ、Pさん、ですのでその、い、いつもありがとうございます! ほら加蓮ちゃんも!」
「ありがとねPさん。それからごめんね? こんな私で」
「歌鈴、加蓮……こっちこそありがとな! そんなことねえぞ加蓮! もう慣れた! ……これからも頑張っていこう!」

小さく頷いて、私達は会議室を後にした。
……ドアを閉める直前、しゅる、と便箋を開ける音がして、足がさらに早くなっていく。
しばらくはPさんの顔を見れないだろう。会話できるかも怪しい。

早歩きを続けて、廊下ですれ違った夕美に頷いてみせたらものすごく嬉しそうな笑顔を返された。何か言及されそうだったけど説明は後にさせてほしい。とにかく今は、歩き続ける。
事務所の談話室まで辿り着いて、ようやく全身の力を抜くことができた。
今度は力を抜きすぎて、その場に倒れこんでしまった。

「あああ緊張したぁ……! 歌鈴もでしょ」
「そんなことないですよ? そのっ、渡す時はさすがにドキドキしましたけど、ありがとう、って言い慣れてますから!」
「……こんにゃろお」
「加蓮ちゃんが悪いんですよーっだ」

べー、と舌を出してくる生意気巫女に腹が立つ。歌鈴と、ここで腹立たしく思わないといけない自分にも。
でも、1度できたことなら、何度だってできる。歌い慣れた歌はいつでも披露できるように、言うことができた感謝はいつだって口にできる。
……うん、私の性格を考えると、きっとそう簡単な話じゃないんだろうね。
せっかくだから、練習でもしよう。次にまた、誰かが私を面倒くさいことに巻き込んだ時の為に。

「ね、歌鈴」
「はい?」
「いつも……その、ありがとね。歌鈴を見てると、なんていうかな、やる気になるから……その、ありがと、なんて」
「いえいえっ! 私こそ、加蓮ちゃんがいるといつも気が引き締まりますから! ありがとうございます!」

今度は、すっと言うことができた。
歌鈴と見合わせて、歌鈴が少し意外な顔をして。それからお互い、くすっ、と控えめに口元を緩めた。

少しくらいは。
本音がちゃんと言える人間になろう。
困ったら、こうして向い合って思い出そう。


掲載日:2015年8月20日

 

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