「還らない子へ」
7月7日に掲載した異説「約束 〜Milky〜」を読んでいただけれると、より楽しめるかと思います。
――かつて北条加蓮には、たった1人の闘病仲間がいました。 同い年の彼女は、王様になりたいという夢を見ました。 王様になって、自分のように哀しい子が生まれない王国を築きたい。 けれど、彼女は7年前、天国へ逝ってしまいました。 ――墓地―― 投げるように、水をかけていく。 北条加蓮は断じて殊勝な人間ではない。世間では常識とされているからそうあるべき、という考えが大嫌いだ――生まれて間もなく常識の埒外へ叩きこまれたのだから、常識に従ってやる道理もないし、従った結果に自分の望んだが物が用意されている可能性が限りなく低い以上、ならば自分のやりたいように生きる方が正しいと大昔から決めている。 だから彼女が墓石に、汚れを取るためというより投げかけるように水をかけているのは、お盆には墓参りをするべきという一般常識に従った結果ではない。 かといって何が何でもやりたいことかと聞かれたら、そうではないと首を横に振る――自分の行動に(物理的にも立場的にも)ある程度の制限がかかっている以上、やりたくないことを理由もなくやる程に加蓮は暇な人間ではない。 桶から水を汲み取って、刻まれた文字へと投げる。 作業を繰り返しているうちに、どうしてこんなことをやっているのか分からなくなって、額の汗を拭った。 少し手を止め、朝から眩い太陽を仰ぐ。少し考えて、理由となる言葉を見つけられないまま、もう面倒臭くなって桶ごと墓石へとぶっ掛けた。 礼儀知らずにも程がある行動に、罰が当たったのか。 あるいは、"そこにいる同胞"にとってお冠だったせいか、水は墓石の独特な角度に弾かれ、あらゆる方向へと散っていった。 わ、と加蓮が小さく悲鳴を上げる。薄地のシャツと歩きやすさを重視した青スニーカーが被害を受けた。 腋から腹へと垂れ落ちる汗に水滴が交じり、大変気持ち悪いことになってシャツを脱ごうとしたけれど、この下がもう下着であることを思い出す――さすがに白のシャツ1枚と下着だけで出かけるにはだいぶ抵抗があったので、肌触りが表現できないほど薄いジャケットを着てここまで来たけれど、今は作業をするということでシャツだけなのだ。 周囲からの視線に聡く、故に疎い加蓮ではあるものの、さすがに公衆の面前、しかも仮にもしめやかであるべき墓地で下着姿を晒すつもりはない。 舌打ちをしつつシャツの端を絞る。途端、指にべたっとした感触を覚えた。 どうやら思っていた以上に汗をかいていたらしい。一瞬、本当に一瞬だけ、香台の溝に溜まった水を飲んでやろうかと思った。 舌で唇を舐めつつ、そこの売店で購入した林道を花立へと突き刺す。べちゃ、と粘り気のある水音がして、色のない目で見落としてみれば、花立の中はどこまでも続く暗闇のようになっていて、少しだけ気分が悪くなった。 両手で数えられるだけの僅かな時間を立ち尽くして、ふわり、と花びらが散ったのを見た。 我に返った加蓮は、そこで自分が頭につけていたものを思い出す――苦笑する。この日の為に、久々の工作に励んで時間を割いて――例えどれほどおの偽りの感情を並べても、これだけはやりかたったのだと自信を持って言えることなのに、今の今まで忘れてしまっていた。 頭につけていた、白と紫の花冠。 これ以上、花びらがいなくなってしまわないように、慎重に取り外して、墓へと供える。 かつて王様になりたいと言った少女。こんな作り物で満足してくれるか、不安だけれど……本当はコサージュも作れればよかったんだけどね、と加蓮は誰に言い訳をするでもなく呟いた。 濡れていない場所を探し、拝石へと膝をつく。 炎天下の影響で蓄積された熱が膝から体へと上がっていった。人の体温とはだいぶ違う熱。そっと指先で触れてみると驚くほど熱されていた。そして、無機質でありつつ酸素を感じた。目だけで太陽を拝んだけれど、加蓮にとってはただ眩しいだけの存在だった。 「……………………」 軽く黙祷をしてから、前文字を見上げる。 よほど大切に磨かれているせいか、少し磨り減って読み辛くなっている。 名前を見ても少しピンと来ないのは、初めて出会った時からあだ名同士で呼んでいたからだろうか。 、と苗字を口にしてみた。口内に淀んだ物が生まれ、唾を吐き捨てた瞬間、つるっ、と右足が水により滑った。息を飲み込むような悲鳴をあげつつ右手を拝石につくとあまりにも熱すぎて今度は別の悲鳴を上げた。 何かに祟られた気分だった。 ……少し意外に思われるかもしれないが、北条加蓮はいわゆる霊的な物、あるいは超常的な物――総括して「オカルト」と呼ばれる物を信じている。 病院でその手の現象に巻き込まれたことが実際にある為、信じている、というよりは、知っている、と記すべきなのかもしれないが。 だから、ごめんごめん、と早口で言う。 ちゃん、と、あの時のあだ名も兼ね合わせて。 それでようやく、加蓮は態勢を整えることができた。 立ち上がって拝石から前を向いたまま後ろに下がって降り、それからもう1度だけ手を合わせておいた。 ――届け、と。 かつての友達へ。 私の声、私の歌、私の在り方を。 天の上の子の元にまで届けるから。 私のことを、見守っていてください――と。 花冠から、紫の花びらが一片、風もないのに舞い上がった。 □ ■ □ ■ □ 暑さにやられると良くないから、という提案で朝早い時間を選んだのに、少し歩くだけで息が上がる。たった5分の距離だけで加蓮の腕は汗まみれになっていた。幾度となく呪いの言葉を吐きそうになり、その度に今日だけは今日だけはと自分に言い聞かせて、結果的に地獄を歩いているような風貌になっていた――彼女を知る者が見れば悲鳴を上げるか慌てて駆け寄り身体を支えようとするだろう。 たまたま白塗りの柱にて朧気ながら自分の顔を見ることができ、さすがにこの顔を見せるのはマズイと口元を意識的に緩める。息を吸って、吐いて、それでようやくいつもの様子に戻ることができた。よし、と頷いて、今度は背を曲げず歩いていく。 霊園の入り口へと戻った時、ぱたぱたとかけてくる姿があった。 それから、差し出されるペットボトル。 「お帰りなさい、加蓮ちゃん」 ただいま、と短く答えて、ついでに預かってもらっていたジャケットを受け取った。いっそ炭酸をがぶ飲みしたかったけれど手渡された物は水だった。少し不満げに眉根を寄せつつ口に含む。味のしない液体がすうっと水を通っていき、これはこれで意外と美味しいと驚いて、改めて彼女の顔を見た。 清白のワンピースが目に眩い。麦わら帽子が似合いすぎて、加蓮は目の前の彼女が自分と同じ東京の人間だということを忘れそうになった。 ずっと見ていると、何か疑問に思われたらしく首を傾げて、それから――見返したが故に気付いたのだろう。慌ててハンカチを取り出して、首筋の汗を拭き始める。別にいいよ、と手を振っても取り付く島はない。 「くすぐったいってば……」 「ちょっとだけ我慢ですっ。……はいっ。あ、タオル、濡らしてきましょうか?」 「いいから。ほら、帰るよ、藍子」 はい、と少女、高森藍子は、両手を前に添えて頷いた。 水を二口ほど飲んでから藍子へと回して、加蓮はこっそりと、目だけで霊園を見た。 上がり始めた気温のせいで、景色が揺らいで見える。その中に探しているものはないだろうかと視界を狭めてみても、人の影すら見出すことができない。加蓮は諦観気味に笑った。はい、と藍子に水を返される――さっきまで掬って投げていた水のことを思い出す。 「…………」 「……加蓮ちゃん? あの、水、もういいのでっ」 「あ、ううん……ありがと。ほら、さっきまで水をかけてたから、不思議だなぁって……」 「そうですか……。墓石、ちゃんと綺麗にしてあげましたか?」 「桶ごとぶっ掛けたら怒られちゃったよ」 「もう、何やっているんですか……」 麦わら帽子で生まれた影から、黄褐色の眼が覗く。困ったような笑顔が、今日もとても綺麗に見える。 「お墓さ、すごく綺麗だったんだ。水をかけたのも、義理みたいなものっていうかさ……。お墓参りする人、ちゃんといるんだなって」 「……きっと、すごく大切に想って下さる方がいるんですよ」 「だと思う。……たった9年しか生きられなくてさ……たった9年なのに、覚えている人がいるんだね。なんて、私も負けてられないかな?」 「……はいっ」 「9年、か……。やりたいこともあって、さ。あの子は何を想ったんだろうね……」 「…………」 「なんて、そんなことはあの子にしか分からないか」 霊園を後にして、ときどき、汗を拭いながら歩いていく。声を張り上げなければ蝉に負けてしまいそうだったけれど、それなら負けてもいい、夏の音に耳を傾けていたい、と思ってしまう。 もしも――もしもこの世界の一般常識があちらの世界にも通用して、お盆にあの子が帰って来ているというのならば。 同じ音を、聞いているかもしれないから。 「もし私が死んだら、藍子なら毎日通いそうだね」 「……ホントですよ。加蓮ちゃんが化けて出てくるまで、ずっと通い詰めますから」 「恐いなぁ」 「だから、自分を大切にしてくださいね?」 「うん、分かってる。まだあの子の……あの子の夢、引き継いでもいないからね。やってみたけどできませんでした、なんて言ったら怒られちゃいそうだ」 かつて、加蓮と同じ境遇にいた少女。 自分のような哀しい子が生まれないように、王様になると言って小さな拳を握った少女。 どれほどの義理感情を覚えても、加蓮は他人の為にそこまで尽くすことはできない。いつだって自分のことで精一杯で、だからもしかしたら、本音のどこかに、同胞を憐れむ気持ちがあるのかもしれない――だから、それを認めた上で、加蓮は。 夢を与えるという方法で、遺志を引き継ぐのだと決めた。 「まだ、決めただけ。……ふふっ、帰ったらまたPさんとミーティングだね。次のお仕事、探さなきゃ」 そう言ってから、藍子を一瞥する。無垢色の少女は、はい、と小さく首を縦に振った。 義理はないし、道理もない。世間で一般常識とされているから、という殊勝な人間でもない。 16歳になった今でもいつでも自分に一生懸命で、精一杯で、死んだ人のことなんて構っている暇もない。 そんな人間だけれど―― 自分の声が、天の彼方へと届けばいいと、加蓮は思う。 |
掲載日:2015年8月15日