「遠くへ、遠くへ」
――温泉街――
下駄の音が、ぱたぱたと弾む。 「んっ……。たまにはりんご飴もいいね」 「はいっ。とってもおいしいです♪」 北条加蓮はりんご飴を舐めて、軽く目を閉じた。 温泉街のざわめきが心地よい――どこからも楽しそうな声が届いてくる。いつもは一身に受け止める側だけれど、こうして群衆の一部になってみるのも悪くない。 ふと、くい、と手を引っ張られた。目を開けると高森藍子が不思議そうな目でこちらを見ていた。 なんでもない、とかぶりを振る。ちょっと味わいたかったんだ、と続けると、じゃあ次は綿菓子に挑戦しましょうっ、とだいぶズレた答えが返ってきた。 「ぼうっと歩くだけでも楽しいもんだね……。それに、浴衣の人もいっぱいいる」 「みんな、お風呂に入ってきた後なのでしょうか」 さほど広くない道には、縁日のように露店が設置されている。香ばしい匂いの誘惑は振り切るのが大変だ。 聞けば、週末はいつもこのような賑わいを見せていると言う。時にはアイドルがLIVEをすることもあるらしい――そんな話を旅館の人たちから聞いた時、思わず顔を見合わせてしまったのはご愛嬌。 ふと、人混みの一角から、おおー! という歓声が上がった。 目を細めてみれば、人々の頭の向こうに見慣れたウサミミが跳ねていた。 「もう一発いっちゃいますよー! そりゃっ!」 ぽんっ、と間抜けな音。ことん、とレッサーパンダのぬいぐるみが倒れる。 店主がやけになって笑っていた。見物客も笑っていた。視線を受けるウサミン星人――こと、安部菜々は、よっしゃ! となんとも男気溢れるガッツポーズを取る。 「……ふふっ」 「あはっ」 いつもならば皮肉の1つでも言うところかもしれないけれど、今日は微笑むだけにしておいた。 やがて菜々が、大量大量! とまるで魚を仕入れたかのように、射的の景品を掲げてこちらに来る。 「つい張り切っちゃって! はいっ、これ加蓮ちゃんにですよ」 「え、ありがと。……マニキュア? へー、こんなの扱ってるんだ」 「ホントにいろいろありましたからねー。こっちは藍子ちゃんにっ」 「ありがとうございますっ。わっ、さっきのぬいぐるみですね!」 「ホントはもう1回くらいやりたかったんですけど、店主さんに泣いて謝られましてねー」 やり過ぎだよ、と菜々を軽く小突いておいた。 さて――如何に元から賑やかな温泉街でも、アイドルが3人集まれば誰かは気付く。人々の声が囁きに変化していくのを加蓮は敏感に感じ取っていた。 目立つと悪いから行くよ、と前を向いたまま言う。藍子が少しもたついていたけれど、なんとかついてきていた――しっかりと握った手を、離さないまま。 行く先は決めていない。 「ほわ〜〜〜〜〜〜」 20分くらい歩きまわって、3人は足湯へとたどり着いていた。 円状になった路地には多くの露店が設置されているけれど、ある一角に入った途端、喧騒が遠くなる。そこではいくつかの足湯が設置されていて、老若男女が思い思いの格好でくつろいでいた。 ちょっと寄ってみませんか、と菜々がソデを引っ張るので足を止めてみたが。 確かにこれは。 「はぁ〜〜〜〜。足が気持ちいい〜〜〜……」 艶やかな声も出てしまうものだった。 全身で浸かるお風呂とはまた違う快感がある。ただ足を入れているだけなのに、疲れた部分がピンポイントに刺激され、熱が体中へと湧き上がってくるのだ。 ぐにゃ、と上半身をだらしなく投げ出してみる。傍らの藍子が、あはは、と小さく苦笑い。 「もうっ、加蓮ちゃんったら。……でも、これ、すっごく気持ちいいですね!」 「生き返りますよお゛お゛お゛お゛…………」 「いいな足湯……。いいなぁ……毎日通いたいくらい……」 「プロダクションにもあるといいんですけれどね、足湯」 加蓮は軽く寝返りを打った。ここの湯は他に誰も利用していないので、服がめくれあがろうと下着が見えようと全く構わない――のは加蓮だけだったらしく、藍子がちょっと慌てた様子で加蓮の浴衣を直していた。ごめんねぇ、と胡乱げに呟くと、額を軽くはたかれた。すごく楽しそうだったけれど。 「疲れたのよぉぉぉぉぉ……」 「はいはい、お疲れ様です加蓮ちゃん。今日はゆっくりしましょうね」 「ゆっくりするぅ」 「あははぁ、加蓮ちゃんおっかしい」 「菜々さんこそ〜〜〜」 「……あはは」 ぐにゃり、ぐにゃり、と声が緩んでいく。いつの間にか菜々が同じように、腰をぐにゃっと曲げて岩肌へと頬をこすりつけていた。 岩も暖かいですよぉ、なんて寝言みたく呟くので試してみた。ゴツゴツして固かっただけだった。 「ねー、菜々さんー」 「はいー」 「そろそろ温泉に入り直さないー? 汗が気になっちゃって」 「えー、ナナもう動きたくありませんよぉ……。ここをウサミン星地球支部の第2拠点にするんですぅ……」 「お金が嵩みそうな拠点だね。じゃあ、もうちょっとゆっくりしよっか。ねっ、藍――」 くぅ、と寝息が聞こえた。……恐る恐る見上げてみれば、予想通り藍子が眠ってしまっていた。 少し慌てるも、結局、加蓮はそのまま上半身を岩肌へと預けていた。 見えた寝顔があまりにもあどけなかったことと、汗でべたつくことくらいなんてことないってことと。 あとは、自分もやっぱり動きたくはない、という気持ちがあったから。 「菜々さん」 「はいー」 「しりとりしよ。しりとり」 「りんご」 「ごますり」 「りす」 「スリ」 「りか」 「管理」 「……リトマス紙」 「尻」 「こらーっ」 スポンジを叩いたような、ふにゃりとした声だった。 藍子がぐらりと傾く。おおっと、と反射的に受け止めた時、遥か遠くで目覚まし時計の音がした……気がした。何にせよ思いっきり身体を起こしたせいでまるで今しがた目覚めたような状態になってしまい、おーさすがですねー、と呑気に手を叩く菜々がひどくうらめしくなってしまった。無言で足を湯から引きずり出す(もっとも、それだけの行動に5分くらいかかったけれど)と菜々が慌ててええっちょっともうちょっと! と言っているが構わず足をタオルで拭く。 疲れた身体が軋み、覚醒した脳が指令を送る。 自分が自分と喧嘩を始める中、加蓮はさっさと温泉に入って眠ってしまおうと考えた――ここから動ける、という気分が変わる前に。 もっとも、それから藍子を起こさないようにゆっくりと足を上げ拭いてあげおぶるまでにも20分ほど要し、その間に菜々もおめざめモードになっていたのだが。 □ ■ □ ■ □ ――温泉(家族風呂)―― オフの日が連続で取れたので宿泊することにしていたが、まさか本名を名乗る訳にもいかない。この温泉郷にはよくアイドルも訪れるそうだが、だからこそ正体がバレたらゲリラライブか何かと勘違いされかねない。 適当な偽名を使う歳、加蓮は他2人と姉妹ということにしておいた(菜々を母親扱いしようとしたが断固として阻止された)。 そして今回のプチ旅行は、完全にゆっくりするためのものだから――と、多少の割高は覚悟の上で、家族風呂を使えるコースを選択。 到着した時に1度、大浴場は利用しているものの、その後で温泉街をゆっくり歩きまわって、はしゃいで、汗をかいてしまったから。 午後10時を周り、喧騒もだいぶ落ち着いた頃、加蓮ら3人はもう1度、入浴することにした。 「はぁ……あったかい……♪」 露天風呂やらジャクジーやらついていた大浴場に比べて、家族風呂はとても質素だった。 さほど大きくない(それでも家のそれと比べると二回りくらい大きいが)室内風呂が2つと、4人まで入れるようになっているサウナがぽつんとついている。大きめの天窓からは星を眺めることができる他、ベランダのようなものも設置。一応ながら外部から裸を見られないような造りにはなっているけれど、おおっぴろげにするにはだいぶ抵抗があった。 もっとも菜々曰く、サウナがついているのは珍しいし、ベランダつきの家族風呂は初めて見るとのことだが。 「……でさ、菜々さん、藍子。なんでそんな離れてんの?」 「え、えと……」 「な、ナナ的には肌年齢がですねぇ」 明らかに熱気とは関係のない汗を顔に張り付けまくっている菜々はなぜだか水着を着用している。それも例の仕事に使った水着ではなく、可能な限り露出を抑え、街中で見ようものならちょっと大胆な私服だと勘違いする程の。 これも菜々情報だが、家族風呂において本来、水着を着用するのはごく普通のことらしい。 らしいが、そういえば数時間前に大浴場へ入った時も、水着こそ使っていなかったもののだいぶ抵抗をしていた。 肌年齢。 ……深くは突っ込まないことにした。 「でも藍子は……あの、あらかさまに退かれると凹むよ?」 「いや、その……温泉というかサウナというか、あの、ちょっと苦い思い出が……」 「思い出? ……ああ、暑さにやられて暴走した時の」 「わっ、忘れてくださいっ」 「思い出させたのは藍子でしょ? 別に、私は気にしないからもっとこっち来なさいよ」 手招きしてみると、かなり逡巡した上で、はいっ、と何か使命感に満ちたように頷く。そろーり、そろーりと近づいてくるけれどこれは何だろうか。小さな子供に怖がられている大人の気分なのだろうか。浴槽の縁に腰掛けた菜々が頑張れーと声援を送っているが果たして何を頑張れというのだろう。 やがて藍子が、加蓮の隣へと辿り着く。やりましたね! と拍手をしているウサミン星人はどこでお酒を引っ掛けてきたのだろう。ひとまずは無視。 「…………お、お邪魔しますね、加蓮ちゃん」 「あはっ、変なの。ぎゅー」 「ひゃっ」 「藍子がなんか逃げ腰だからね」 かつてこの3人で某スパワールドのサウナに入った時、暑さにやられた藍子がやたら絡みついてきた。それを思い出してかじたばたする藍子だけれど、それくらいで逃すつもりは全くない。 「相変わらず育つとこ育ってないね。ちゃんとご飯食べてる?」 「あうぅ……食べてますけど、その……加蓮ちゃんこそ、ちゃんと三食とってますか? なんだか前より細くなった気が……?」 「食べてる食べてる。ハードワークだから痩せちゃったのかもね。……ね? 菜々さん」 お腹をぷにぷにと摘んでいた菜々が「ぎゅい!?」と謎の声を上げてひっくり返っていた。 「ふふっ。ま、私から振っといてなんだけど……気にしなくていいんじゃない? 藍子は、藍子だよ」 「…………でも」 「私と同じ身長で、私と同じ体重でも、私は加蓮で、藍子は藍子なんだから。……ね?」 「……はいっ」 「それに、ほら。膝枕もいっつも気持ちいいし、こうしてぎゅってしたら」 「ひゃうっ」 少しだけ、腕の力を強めてみた。少しだけ、腕の力を強めてみた。確かに肉付きはあまり感じられないかもしれないけれど。 「……なんだか、安心するもん」 肩に、こつん、と額を当てるだけで、確かな暖かさが感じられる。 「加蓮ちゃん……もうっ。そんなにくっついたら、またのぼせちゃいます」 「そしたら私がちゃんと見るよ」 「うぅ、後で恥ずかしくなっちゃうから……」 それでも藍子はこれといった抵抗を見せなかった。ちょっとだけ力を弱めると、逆に抱きつき返してくれた。 「こうして一緒にお風呂に入ってるのに、今さら何を恥ずかしがるんだか」 「……だって」 「ふふっ。藍子は藍子だねー」 濡れた手で髪の毛をかき分けてあげた。完全に身を預けてくる藍子が、ちょっとだけ小さく見える。 こうして……ずっと、藍子が隣にいて。 緩やかな時間を過ごすことなんて、今までに何度も経験してきた筈なのに。 ちょっとした高揚感と、ちょっとした特別感を切り捨てきれないのは、ここが温泉だからだろうか。 それとも、いつもは膝の上でお世話になっているからだろうか。 ノスタルジックな想像に、らしくない、とかぶりを振った時。 イタタタタ、という生々しい声が聞こえて、加蓮の意識は一気に現実へと引き戻された。 「あー、変な落ち方しましたよぉ……アザになってなければいいけど……」 「あれ、意識あったんだ」 「ありましたよ! ……あーあー、まーたナナが目を離してる隙に2人だけの空間を作っちゃって。おじゃま虫なら出てましょうか?」 「そんなんじゃないってば……。なんだったら菜々さんも来、」 「いえっナナはけっこうですよ! ……あの、なんか藍子ちゃんが恐い顔してるので」 「藍子が? ……変なの」 嫉妬や独占欲、と名付けるのも……少し、違う気がする。 でも、本意を正すのは、今やるべきことではない。 息を大きく吸う。微かに硫黄の匂いがした。それから、さっきまで歩いてた温泉街の匂い――匂い、というよりも、味。 いろんなものを食べた。縁日でもないのに、円状の路地には屋台がいっぱい並んでいて、ところかまわず食欲を掻き立てさせる匂いには早々に白旗を上げた。 旅館の人曰く、週末はいつもこうらしい。 そのことを思い出して、加蓮は小さく微笑む。すぐ近くの藍子が頭を動かした。たぶん、首を傾げたのだろう。 「……はー。なんだか最近、藍子や菜々さんと色んな所に行ってる気がする」 「そうですねぇ……」 薄乳白色のお湯から足を出す。ちゃぷん、という音が面白くて、何度か繰り返してみた。 「あははっ。えっと、サービスエリアでしょ、遊園地でしょ。あとは……」 「鍾乳洞ですね! パワースポット効果、ありました?」 「さー、どうだろうねー。菜々さんが小銭入れを落としたって記憶しかないよ」 「うぐ」 「あと、藍子が美味しそうにとろろうどんを食べてた思い出」 「はいっ。……あの時のおうどん、すごく美味しかったなぁ……♪」 そうしてどこかに行く度に、大騒ぎをしていた気がする。 特に遊園地なんて休まる暇もなくて……トラブルにトラブルが重なり、最後には事務所でお説教まで受けてしまったけれど、でも、それもいい思い出だ。 思い出。 その言葉を連想して、加蓮は左手で胸を抑える。身体が強張ってしまったからか、藍子が心配気な目を向けてきた。 「ううん……。今度は、もっと遠くに旅行したいな……」 「いいですねぇ。加蓮ちゃんと藍子ちゃんに合わせたら、何日くらいいるでしょうか」 「ふふっ、じゃあ難しっか。なんたって売れっ子アイドルだもんね」 「売れっ子アイドルですからね! ……はー。たまーに、ホントにたまーに、アイドルってキツイなぁって思うんですよ。こういう時」 「菜々さんも? 私も」 「加蓮ちゃんもですか」 「ま、すぐに思い返すんだけどね……目の前のことが、楽しくて楽しくて」 それでも、馬鹿騒ぎはしてみたいし、菜々や藍子に付き合ってどこかに行くことが、最近たまらなく楽しい。 なんて心境を察知したのかもしれない――まとまったオフの日をくれたのは、そして、温泉郷に宿泊できるだけの時間の調節をしてくれたのはプロデューサーだった。 相変わらず目の下の隈を隠そうともしない様に、ほんのちょっとの罪悪感と、大きな感謝を抱いて。 ……もちろん、加蓮は「これで藍子と菜々さんが喜ぶね。私? ま、保護者みたいなもんだよ」と捻くれていたが。 「次はどこに行きたい? はい藍子」 「えっ、っと……」 温泉効果でぼけーっとしていたのか、藍子はいつもよりさらにのんびりとした口調だった。 「あ、そうだ……おしゃれなカフェで、ゆ〜っくり、したいなぁ……」 「……それ旅行じゃないでしょ」 「藍子ちゃん藍子ちゃん。どうせ行くならどこか遠くにしましょう! 普段行かないようなところで!」 「じゃあ……あはっ、加蓮ちゃんとなら、どこへだって……♪」 「……あのぅ、ナナは入っていないんですかね?」 「もちろん菜々さんともですよ……えへへっ……」 「あーはいはい、分かりました、藍子ちゃんが加蓮ちゃんのことを大好きっていうのはよーく分かってますから」 別に寂しくないですし、とやけっぱちに言う菜々には一応、そういうんじゃないから、とだけ述べておいた。 「私は……何か美味しい物が食べたいかな。ほら、カニとか、ウニとか」 「それなら北海道ですね! 次のオフが合ったら行ってみますか?」 「そんな軽い気持ちで行けるところ? ……って、お金はだいぶ余ってるもんね」 「行ける場所には行ける時に行きましょう。ほらっ、若い内には特に!」 「……………………ま、世間的に見たら菜々さんも若い内か」 「ああっその気遣いの目が痛いですよぉ加蓮ちゃん! ええと、世間的に見なくてもナナだって若いですよほら17歳ですから!」 どこかへ行こう。 どこへ行こうか。 以前の加蓮ならば……まずは行く場所を決めてから、手段や費用、スケジュールなどを考えたいただろうけれど。 今は、旅行をすることそのものを決めて、それからゆっくりと考えたい。 「美術館とか、水族館もいいかな……。そういう芸術とかって、実はちょっと興味あるんだ」 「ほほう。ナナ的には博物館もいいですね! ウサミン星人として地球の文明の調査は大切ですから!」 「あはっ。じゃあ歴史資料館とか。やだなー、あそこは退屈そう」 「いっそ古墳みたいなところも! ほら、ああいうところもパワースポットだって言いますし!」 「ハマったんだ」 「雑誌に書いてあるとつい。ほらほら、加蓮ちゃん。パワーですよパワー」 傍らで藍子が笑っていた。何かがツボに入った、とかではない。蕩けきった笑みだった。 適温の温泉でものぼせかけているのかもしれない。……もしくは、自分が肩を抱いているからかもしれないけれど。 菜々がぱたぱたと駆けて、飲水を持ってきてくれた。飲み干させると表情にいくらかの感情が戻るも、加蓮へとさらに体重を預けてくる。鎖骨に小さな感触が生まれて、つい呟いた。 「あまえんぼ」 加蓮ちゃんもじゃないですか〜、と、ころっとした声で言われた。 「…………ふふっ。変なの」 「藍子ちゃんがですか?」 「違う違う……藍子もだけど、私も。ほら、藍子と菜々さんと、いろんなとこに行ってさ……アイドル仲間だけど、そうじゃなくて、ただの仲良しって感じでさ。行った先でも……遊園地みたいなことはあったけど、アイドルとぜんぜん関係なくて」 でもね、と言って、口の中で唾を飲み込む。舌の位置を確認して、でも、と繰り返す。 「楽しいんだ……今までずっと、アイドルばっかりだった。アイドルを続けてたら、新しいことがどんどんあって……それもすごく楽しくて。でも、アイドルばっかりだった」 「……加蓮ちゃん」 「アイドルじゃなくても、世界にはこんなに楽しい場所があるんだね。いっぱい、あるんだね」 天井を見上げた。天窓から、ぽつりぽつりと星が見える。 都会の空なんて、こうして見上げたことがない。だから――すっ、と唇を引くのは、きっと2人がいてくれるから。 「……アイドルだけど、アイドルだけじゃない。私の世界は、まだまだ広がっていくのかな」 らしくないな、と思いつつ。顔を下ろしたら、菜々がひどく優しげに微笑んでいた。 「加蓮ちゃんの世界は無限大ですよ。どこまでも飛び出していきましょう」 「うんっ」 「ナナも微力ながらお伴しますね! きっと藍子ちゃんもっ」 「ふぇっ……? あ、はいっ……加蓮ちゃん、今まで知らない場所、いっぱい連れていってあげます……きれいなところと、可愛いお店と、あと……」 藍子は瞼を閉じかけていた。それでも、えへへぇ、と楽しそうで、愛おしかった。 しばらくの間、ぽつぽつと聞いたことのない地名や建物名を列挙してから、藍子は、くて、と力を失った。 ……どうやら、温泉はここまでみたい。 お姫様抱っこの要領で藍子を抱え上げる。様になってますねぇ、と鑑定士みたいなことを言うウサミン星人に投げてやろうかと思ったけれどさすがにやめておいた。 「今日はもう寝よっか。……あぁ、その前に藍子の身体を拭いてあげて、パジャマを着せないといけないんだよね。……このまま裸で放置していい?」 「ナナも手伝いますから。ぱぱっとやって、布団に入っちゃいましょう!」 「はーい。…………」 家族風呂から出る前に、1度だけ振り返った。 宿泊予定は1泊2日。車を出せば30分ほどで来られる場所だけれど、この3人で同じような時間を過ごすことができるのは、もうずっと先の話になるかもしれない。 もし時間を確保できたとしても、今度は菜々か藍子か、あるいは加蓮自身が、どこか別の場所に行きたいというだろう。 過ぎ去った道に未練はないけれど、今だけは、ほんのちょっとだけ。 足を止めて、目を細めていたかった。 腕の中で、藍子が小さく、くすっ、とわらった気がした。 |
掲載日:2015年8月10日
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