「北条加蓮のいない場所」
――事務所――
安部菜々にお茶を淹れてあげようと立ち上がり、給湯室へ向かう前、ふと壁にかかったホワイトボードが気になった。 引き返して確認してみる――菜々から訝しむ目を向けられたので苦笑いで返しつつ。高森藍子は手をポンと叩いた。カップは2つではなく4つにしておいた方が良さそうだ。 給湯室には誰もいなかった。慣れた手つきで、薄めのお茶を1つ、濃い目のお茶を1つ、あとはバランスの良いお茶を2つ淹れて、お盆に載せる。両手でお盆を持つ時はいつも緊張する。重たくはないけれど、ちょっとでも揺らすとこぼれてしまいそうだから――後で拭けばいい、ということではなくて、せっかく淹れたお茶なのだから、と。 事務所の事務室――藍子の担当Pと、それからフリルドスクエアの担当Pが共通で使っている部屋に戻った時、藍子は、あはっ、と笑った。 「お帰りなさいっ、Pさん、加蓮ちゃん!」 少しくたびれた様子のPと、少し疲れた様子の北条加蓮が、揃って顔を上げる。 「おう、ただいま」 「ちょうど帰ってくる頃かなと思って、お茶を多めに淹れておいたんです。はいっ、どうぞ」 「サンキュ。藍子は気が利くなぁ」 膝までのテーブルに置いたら、Pは茶を手にとって机へと向かおうとした。むぅ、と藍子はちょっぴり唇を尖らせて、ぽんぽん、とソファを叩く。 真意はすぐに伝わった。そうだな、とPが肩を竦め、ソファへとどっしり腰掛けた。 3人がけのソファがずっしりと沈み込む。ふー、と天井へと思いっきり息を吐いているところを見ると、本当にお疲れらしい。 「なんていってもナナのライバルですからね!」 「…………ライバル?」 「藍子ちゃんといるといつナナがメイドではなくなってしまうかとヒヤヒヤ物で……!」 「はぁ」 残った加蓮が、藍子の隣に腰を降ろした。こちらも座るなり、はー、と大きく息を吐き、何か言う前に藍子の膝へと頭を預けてしまった。 「疲れたぁ……」 「お疲れ様です、加蓮ちゃん。今日はロケでしたっけ?」 「ロケなんだけどな、いろいろあって長引いたんだよ……。夏からの新人が多く入ったみたいでな」 「この時期は大変ですよね! ナナもメイドカフェに新しく入った人に教えるのはそれはそれは――いやまぁほら人の出入りが激しいですからね東京ですからね!」 相変わらず菜々が自爆をしている。横目で見流して藍子は微笑みつつ、ふとお茶菓子を持ってこようと腰を浮かしかけた。 けれどその時、加蓮に膝枕をしていることを思い出した。 お菓子、いりますか? と尋ねたら、それよりのんびりしてたい、と草臥れた声が帰ってきた。 「そうですか……。あの、菜々さん」 「キャハッ☆ 何ですか藍子ちゃん!」 「Pさんと加蓮ちゃんに、お茶菓子でもって思ったんですけれど……その、見ての通りなので」 「オッケーですよ」 菜々がぱたぱたと駆けていく。ありがとうございます、と頭を下げたら加蓮に小突かれた。急にされたらびっくりするじゃないの、キスでもされるかと思ったわよ、なんて唇の先で舌をひっくり返したようなことを言われる。そうしたらPさんがびっくりしちゃいますね、なんて返してさりげなく視線を流したら、当の彼は俺は何も見ていないぞとアピールするかのように明後日の方向を向いていた。 「事務所に帰ってくるの、久々だっけ?」 「そうですね。加蓮ちゃん、ここのところずっとロケでしたから。Pさんも、お久しぶり……に、なるのかな?」 「一応、たまに事務所に顔は出していたが……指示を出してすぐ加蓮についていくって日々だったか」 「ですね。あ、でも柚ちゃんがPさんとお話したって……」 「戻った時にたまたまいたからな。そういえばあまり話したことがなかったと思って」 「浮気だー」 「アホか」 加蓮が少しそわそわし始めた。どうしたのかと目で尋ねてみたら、彼女はちらっと服を捲った。別に気にすることはないけれど、浮き出ている汗をハンカチで拭いてあげたら、そうじゃなくてっ、とくすぐったそうにしている声をあげられた。 「そういえば菜々さんが水着の仕事をやったんだって?」 「はい。とうとうしちゃいましたっ」 「ちっ。なんでそんな面白そうなことがある時に私はロケなのよ」 「きっと神様が、余計なことするなっ、って言っているんですよ」 話題が伸びようとするのを阻止するかのように、菜々が帰ってくる。 「カステラがありましたよ! 加蓮ちゃん用に大人のチョコとやらも持ってきてみましたが」 「ありがと。気なんて遣わなくていいのに……。大人のチョコは菜々さんにあげる」 「いえいえ、ナナはカステラでいいですから」 「大人のチョコだよ? 菜々さんの為にあるようなお菓子じゃん」 「スルーしたのに回りこむのやめてくれませんかねぇ!」 カステラはとても甘かった。牛乳が欲しいとも思わないくらいに。それでも、と思い、一欠片だけ加蓮に食べさせてあげた。やっぱり、ひどく苦い顔をしていた。 「次の週末に歌鈴のLIVEがあるんだが、加蓮には伝えてたかな」 「歌鈴の? ふーん……最近、一緒にレッスンすることもなかったなぁ。ちょっと見てあげよ」 「加蓮ちゃん、すっごくお疲れなのに……」 「見るだけなら大丈夫だって」 「そんなこと言って、見に行ったらまた、やる気になったとか何とか言って参加しちゃうんですよね」 「さすが藍子、よく分かってるじゃん」 「じゃあ行かせませんっ」 「ぐぬぬ」 ああ〜、疲れに染みるぅ〜、と菜々が思いっきりソファにもたれかかっていた。その向こうではPがだいたい同じような反応を見せていて、2人は顔を見合わせてニカッと笑っていた。なんだか大人同士がお酒を飲んだ席みたいで、ちょっとだけ羨ましい。試しにカステラを1つ、思いっきり頬張ってみるけれど、甘くて美味しいというだけで、2人の気持ちはイマイチよく分からなかった。 「加蓮ちゃんはもう次のLIVEが決まっているんでしたっけ?」 「うん。相変わらず休む暇もないね」 「しっかり疲れを取らないと次の日がキツイですよ! なんならマッサージでも」 「次の次の日じゃなくて?」 「そーなんですよ、次の日に来ないからこれはいけるかな? なんて思ったらその次の日に地獄を見――」 「…………あのさ菜々。俺ですらまだ次の日に来るんだけど」 「ハッ! そそ、そんな筈ないですよっ、いくらナナでもPさんよりはまだ年下――」 「17歳だしな」 「17歳だもんね」 「そそそそそうですよ! 2人して酷いですね! ナナは現役じぇーけーアイドルですっ! ……藍子ちゃぁん! なんでそこでポカーンとした目でナナを見ますかねぇ!」 つい、くすくすと笑ってしまう。ごめんなさい、と舌をちろっと出しておいた。 なおも憤慨する菜々を尻目に、加蓮と目を合わせて、小さく笑い合う。 「そういえば加蓮ちゃん。今度、事務所のみんなで海に行くことになったんですよ」 「みんなで?」 「はいっ。歌鈴ちゃんに夕美さん、柚ちゃん。きっとフリルドスクエアの皆さんもですっ」 「大勢だね。予定、合うのかな?」 「そこは……Pさんに期待するってことでっ」 「俺か。これはやり甲斐があるなっ」 腕をぐるぐると回す様が頼もしい。ぺこっ、と頭を下げたら、また加蓮にどつかれた。 「あ、そうだ。菜々さんの水着の写真集、まだ見せてもらってないや」 「ギャー! 忘れてるって思ったのに!」 「忘れる訳ないじゃん。こんな面白……ごほんっ、愉快な……ごほんっ、ネタにでき……ごほんっ、レアなこと」 「どんだけ取り繕うですかね!?」 「そろそろファンからの要望も無視できなくなってきたからな。ファンあってのアイドルだ」 「よっ、Pさん、名プロデューサー!」 「嘘つけぇ!」 菜々がまた騒ぐ。何も思わない訳ではない。でも加蓮が楽しそうだからいっかなんて思ってしまう。すがりついてくる目がある気がするけれど、藍子は気づかないフリをした。ごめんなさい菜々さんっ、と、心の中だけで謝っておいて。 「お土産、買ってきたんだ。今回はお菓子じゃなくて飲み物。またみんなで飲もうよ」 「いいですねぇ! って、どうせならカステラと一緒に飲めばよかったですか」 「ううん、お菓子抜きで。試飲した時にね、もうホントに美味しくて」 「加蓮な、その時に宣伝したいってすげえ粘ったんだ。結局、店員が隠れ家にしたいって言うからしぶしぶ引き下がったが」 「もうっ、Pさん。余計なこと言わないの」 「そんなに美味しいんですか? あはっ、ちょっと期待しちゃいますっ」 ごろん、と加蓮が寝返りを打った。寝返りと言っても広くない膝の上だから、少し頭の向きを変えただけに過ぎないけれど。 なぜかは全く分からないけれどなぜか悔しくて、ぎゅ、と加蓮の頭を両手で固定して、元の場所に戻そうとした。ぐぐぐ、と加蓮が抵抗を始める。結局は加蓮の体力がからっけつということもあって藍子の勝利に終わったけれど、頭を元の場所に戻してもらったらそれはそれで違和感があった。 ちょっと席を外すな、とPが立ち去る。目で追うと、少しふらついているのがすぐに分かった。少しでも休んで欲しい。 「話すこと、いっぱいありますね」 「んー? 急にどしたの」 「ほら、加蓮ちゃんが姿を見せなかったのって、4日か5日かくらいですけれど……それでも、お話することがいっぱいあるなって」 「なんたってアイドル事務所ですからね! 話題には困りませんよ!」 「菜々さんが水着になったり?」 「それ以外で!」 「まあ、このまま夜通しまではいけるかな」 「お泊り会ですか」 「……やめとく。私、すぐに寝ちゃいそう」 こういうのも楽しいですね、と藍子は笑った。 思い出話というものは写真に似ているのかもしれない。写真を撮った瞬間という物は確かに存在していて、きっとその時も何かお話をしているのだろうけれど、後から見返した時にはぜんぜん違う会話をしている。その、どちらも楽しいのだ。リアルタイムで進行していく出来事も、既に起きた出来事を振り返るのも、3人が相手ならいつだって素敵な時間になるのだ、と。 なんて思っていたけれど――どうやら、加蓮は気を召さなかったらしい。 「…………そだね」 膨れていた。 「あれ? ……加蓮ちゃん?」 「別に……アイドルだから長期ロケくらい普通にあるでしょ。何も昨日今日の新人じゃないんだから分かってるよ」 「はぁ……。じゃあ、どうしたんですか?」 「どうもしないって」 「どうもしないって顔じゃないですよ」 「どうもしない」 「……いじっぱり」 すっ、と加蓮が藍子の膝へと顔を押し付けた。まるで泣いている子供が顔を見せたくない時に似ていた。頭を撫でたけれど身動ぎもしてくれない。 困り果てて菜々の方を見ると、菜々もぱちくりと目を瞬かせている。 少しの間だけ、気まずい時間。 あっ、と藍子は閃いた。もしかしたら、加蓮は。 「加蓮ちゃん、もしかして、拗ねちゃってます?」 「……………………別に」 「あはっ」 正解だ。 「そんなに菜々さんの水着を見られなかったのが悔しいんですか?」 「ちょお、藍子ちゃん!?」 「…………後で写真集に穴が空くまで見てやるもん」 「やめてくださいよ!」 「あはっ……ほら、みんなで海に行った時に、ね?」 「うん…………」 「今度は、加蓮ちゃんと一緒の時間を、誰かにお話しましょ? その誰かが、羨ましく思うくらいに」 「…………うん」 もう1度、指で髪をかき分けてみた。今度は安らぐような息が吐き出された。 菜々と見合って、ふぅ、と安堵する。まあ菜々にはなにか思うところがあるのだろうが(ネタにしてしまったことは本当に申し訳なく思う)、それでも同意はしてくれているらしい。 「ただいまっと。悪い、ちょっと外せない電話が――」 ちょうどそこで、Pが帰ってきた。 「…………ん? なんかあったか? なんで加蓮は拗ねてるんだ」 「加蓮ちゃんが拗ねているって、分かるんですか?」 「そりゃ、加蓮がそんな風にするのって、拗ねてるか凹んでる時だろ。ちょっと話すだけで凹む奴だとも思えんし」 「Pさん失礼ー。これでもナイーブな乙女なんだー」 「はいはいナイーブな乙女は新人で弄んで泣かしたりしない」 「……何してるんですか加蓮ちゃん」 「つい」 机の上のお茶に気がついた。カップの側面で指を冷やして、加蓮の頬へと当てる。ひゃ、と跳ね起きた彼女は、しばし左右をきょろきょろと見渡して、やがて藍子の仕業だと気づいて、ぐにぐにと頬を伸ばしてきた。ぜんぜん痛くなかった。 「はいっ、加蓮ちゃん。お茶、どうぞ」 「ん……んぐんぐ……ぷはっ」 「ねえ、Pさん。今度は加蓮ちゃんと、誰かに自慢できる時間を過ごしたいなって。加蓮ちゃんとお話していたんです」 「そっか」 「忙しいのは分かりますけれど……ちょっとだけ、いいですか?」 「そうだな。加蓮も外でよく言ってたぞ。藍子がどうとか菜々がどうとか」 「だから余計なこと言うなっ」 「ほほう。ナナの話までしていたとは。気になりますね」 「…………いや、そこは気にしない方がいいというか……」 「なんで遠い目なんですか!? 普段どういうお話を!?」 加蓮が叩きつけるように置いたカップには、水滴も残っていない。 ありがとうございます、と不意にお礼を言ってみたら、よく分からない顔をされた。なんとなく言ってみたかったんです。そう言うとますます首を傾げられて、やがて興味を失ったように菜々いじりへと戻る。 適度なところで止めてあげようと、いつものように少し引いた場所に立って。笑う3人を見ながら。 やっぱりこうして一緒にいる方がいいな、と、加蓮の気持ちが流れこんで来るのだった。 北条加蓮のいない場所に咲く華と、北条加蓮のいる場所に咲く華。 どちらも好きだけれど、どちらにいたいかと聞かれたら。 |
掲載日:2015年8月5日
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