「あなたが居てくれる場所」






北条加蓮にとって必要な物は、会話ではなく、時間だった。



事務所の休憩室の一角で、加蓮は唸っていた。
特に必要もなく、度が入っていないメガネをかけ(誰からの物かは言うまでもないだろう)、やや小さめのテレビを睨む。
難しい参考書を相手にするような目つきで、自分の脳内と格闘する。
繊細で力強い手が握っているのは、旧型のコントローラ。

「あ、やっぱり違うか……」

加蓮はゲームをしていた。
ひとむかし……どころか、2世代3世代と前の、ドット絵で構成されるようなゲームを。
安部菜々に尋ねれば、攻略法を隅から隅まで教えてくれそうなゲームを。
まるでヘッドホンをかけているくらいに、音量を小さく小さくして。
珍しいこと、でもない。かつて入院していた頃、あまり余る時間と多少のワガママを聞き入れてもらえる環境にあった加蓮は、1人でできる娯楽をひと通りこなしていた。その気になれば、何も参考にせず想い人にマフラーを編むことも、分厚い本を1日で読み切ることも、容易にできるだろう。

「難しいなー……」

しかし、それらは昔のこと。
ゲームをやりたいからゲームをやっていた訳ではなくて、他にやることがないからゲームをしていただけの彼女は、多少は自由に行動できるようになって、液晶画面と向かい合うこともほとんどなくなった。
10年ぶりくらいだろうか。
当時の記憶がそのまま残っている訳がない。
パズルや謎解きに躓いて、歯がゆい思いをすることも少なくはない。

「これ……じゃない、こっち……も違うかぁ。あっれー、ホント、どうだったっけ……?」

漏れ落ちる独り言に、苛立ちの感情はほとんど含まれていなかった。
息抜きでも、アイドルでも、何かがうまくいかない度に、うまくいかないことを楽しもうと、心に決めていた。
過程に目を瞑って結果を出すことが好きだった。結果さえ出せられればそれでいいと思っていた。
今は、目を向けられることには、すべて目を向けておきたいと、加蓮は思う。

「んぅー……」

それに、もう1つ――もし加蓮が1人でいるなら、やっぱり結果を重視し、行き詰まっていることに苛立ちを覚えるだろう。
そうではなく、こうして彷徨うことも楽しめられるのは、背中を預けた相手がいるから。
適度に曲がった加蓮の背に、全く同じ角度で曲がった背があった。
頭の位置も全く同じ。互いにかかっている体重も同じ。

「あはっ、これかわいい……♪」

高森藍子が、小さく笑った。

背中が、すり、と小さく動く。
微かなくすぐったさに、口の中の舌が動いた。体温の伝わり方が変わってしまった。
ほんのちょっとのことかもしれないけれど、それだけであたたかな毛布を奪われてしまったようだった。
加蓮は目を背後に遣る。液晶画面からの音量が聞こえなくなり、背後からの息遣いが鼓膜を刺激した。
何か言おうとして、すぐにやめる。
代わりに、開きかけていた口で、薄っすらと笑みを作った。

「ったくもー」

加蓮は前を向いた。
目に入る世界が反転した。脳が認識する音が、呼吸から機械音へと変わる。

「さて、どうしたものかねー……」

再び十字キーとボタンを操りはじめた。
ぴこぴこ、ぴこぴこ、と何も変わり映えしないままに、時計の針を無駄に消費していく。
たまに瞑目して、記憶を引き摺りだそうとする。
頭の中に、手を伸ばす感覚を引き起こして。
でも、何か鉄パイプのようなものに引っかかる。
……ゲームのこととはいえ、加蓮は悩んでいる。
いつもの藍子ならば、大丈夫ですか? と、こちらを覗きこんでくるだろうが。
藍子は、手元の雑誌をゆっくりと……時計の音を何度も聞いて、はじめて気がついたように、ゆっくりと捲っていた。
たまに口を開いても、耳を澄ましてようやく聞こえる独り言だけ。
こうしてくれ、と加蓮が頼んだのではない。
互いにレッスンも仕事もない、オフの1日。示し合わせることもなく朝早くから事務所に来た彼女らは、適当に仲間やプロデューサーとの会話をこなし、だいたいが出払ったところで、なんとなく休憩室へと足を運んで、そして気がつけば今の構図ができあがっていた。

背中合わせ。
相手の姿が、視界の端にも映らない状態。
会話もない。

「んー、こっちか。……違うなぁ」

加蓮は再び画面に視線を映す。もう何度も見た光景を右往左往としている。
このままでは二進も三進もいかない。ポーズ画面を開いて、ちょっと手を止めることにした。
その時に、部屋の隅にあるカバンからスマートフォンを取り出そうと、一瞬だけ考えた。
それも1つの手なのだろう。攻略方法を見て、そっか、と思い出すことも、きっと楽しいだろう。
なんでこんなことに気付かなかったんだろう、と笑ってみるのもいいだろう。

……でも、その為に、体温が伝達する背中を離すのだろうか。
立ち上がって、また戻ってきて、背中を預けても、その時に得られるあたたかさは、きっと違う物だ。
だったら、いいや。
服越しに伝わる肌の感覚、かろうじでぶつかっていることが分かる骨、そこにいるんだと実感させてくれる鼓動を。
共有したまま、記憶の海へ潜っていこう――



『おとうさん、おかあさん……?』
『どこ……?』
『どこにいるの……?』
『おとうさん……? おかあさん……?』
『ねえ……!』



「……んぅ?」

脳裏に、柔らかい蜘蛛の糸がイメージされた。
見えない手で触ってみたら、少しだけべたついて、少しだけ冷たかった。
目を開くと、視界がぼやけていることに気がついた。
こすろうとして掌を開くと、こと、と何かが落ちる音がした。
小さい頃、ぎりぎりの時間まで握っていたコントローラー。
落ちた音が、スイッチのようで。

「……寝ちゃってたか……?」

そこまで確認して、加蓮は自分の状態を認識する。
ひどく懐かしい声を聞いたような気がする――誰の声だったのだろう。
それは分からないけれど、なんでだろうか、加蓮はどんな真冬の雪山よりも冷たいところにいると錯覚した。

「藍子」
「はいっ」
「……ん、なんでもない」

会話に意味はない。加蓮が必要としているのは、会話ではなく時間なのだから。
楽しげな声が聞こえてきたから、それだけでよかった。
そこにいると分かるだけで、よかった。

「…………ん?」

ゲームを再開しようとした時に。
ぎゅっ、と手を握られた。
最初は、ほくそ笑んだような表情の変化に、ちょっとだけ意地悪な気持ちが浮かんで。
次に、骨をぬくもりが歩いた。
右目だけで後ろを向いたら、自分と同じような瞳が見えた。
はいはい、と素直に受け止める。
……北条加蓮がひねくれた生き方をしているのは、半分くらいが自分の意志で、半分くらいが本能みたいなものだ。
だから自分の性格を、半分くらいは好いているし、半分くらいは嫌気がさす。
もっと素直に生きていればよかったと思うことだって、1度や2度ではない。
でも、加蓮がやっているのは、後悔ばかりだった。
……少しくらいは素直に行きてみようかと、前向きに考えたのは、もしかしたらこれが初めてかもしれない。

「藍子」
「はいっ」
「私、どんくらい寝てた?」
「さあ……。30分くらいでしょうか?」
「そっか」

テレビはポーズ画面で固まったままだ。スタートボタンを押すと同時に、

「……あー、思い出した」

加蓮はゲームの攻略法を思い出した。
「押すんじゃなくて引くんじゃなくて、別の道を探すんだっけ」
自分の底の底から拾い上げてきた記憶を頼りに、十字キーを右へ左へと動かす。
10分ほどが経過して、聞くだけでそのゲームの物だと分かるファンファーレが鳴り響いた。
思わず手を叩いてしまった。分かっていたことだけれど。

「よし」

……少し遠いところから、快活な声が聞こえてきた。
出払ってきた事務所に、誰かが戻ってきたのだろう。
足音が休憩室に近づいてきて、そして離れていく。
意味もなく身を固くしてしまっていたことに気がついて、ふと顔を上げてみれば、背中の感触まで強張っていたことに気がついて。
どちらからともなく、笑い声が漏れ落ちた。

「何の隠し事してるのよ」
「あはっ、何もしてないですよ? 加蓮ちゃんこそ」
「隠し事してないと死ぬ病気だもん」
「もうっ」

ことことと、休憩室のドアが身じろぎをする。

――糸が切れた。

「藍子」
「なにですか?」
「ただいま」
「うん。おかえりなさい、加蓮ちゃん」
「あーあ……もうちょっと無駄な時間を過ごしたかったんだけどな」
「ゲーム、やめちゃうんですか? まだセーブもしてないのに」
「また次にやる時に悩むよ。どうせ攻略法なんて覚えてないだろうし」
「じゃあ、その時には一緒に考えちゃいましょうか」
「えー、藍子さ、今、私がどうやって謎解きしたかって覚えてるでしょ」
「あ、それもそうですね……じゃあ、悩んでいる加蓮ちゃんを見守ることにしますね♪」
「それはそれでムカつ…………」
「加蓮ちゃん?」
「……た、たまには、その、しっかり……み、見守っててくれる?」
「……ふふっ、はいっ!」

わかりきったって笑顔が腹立たしいなんて気持ちは、消え失せたりはしない。
北条加蓮という人間は、そういう生き方をしてきたのだから。
でも、素直になりたいという気持ちは、素直じゃない気持ちを消すこととは、少し違うだろうから。
加蓮は1つ頷いて、少し照れくさい気持ちに1人で唸ってから、藍子の髪をわしゃわしゃと乱すことにした。

「わっ。もー、何するんですかー」
「手が勝手に」
「ニヤニヤしながら言うことじゃないですよー」
「さて、みんなのところにでも行こっか。菜々さん、戻ってきてるから」
「おみやげ、期待しちゃいますねっ」
「ラジオの収録帰りでしょ? ウサミン星でラジオを収録してるって言ってたから、じゃあウサミン星の名産品とかもらえるかな」
「あんまりからかっちゃ駄目ですよ、加蓮ちゃん?」
「はーい」

ゲームを消して、テレビも消して、立ち上がって、ドアを開けて。
次に時計を見た時に、ひどい時間だと体を震わすかもしれないけれど。

無駄な時間も存在しているのだと、繋いだ手が実感させてくれる。


掲載日:2015年6月20日

 

第35話「ぺかーっ」へ 第37話「何度だって何度だって」へ

二次創作ページトップへ戻る

サイトトップに戻る

inserted by FC2 system