「あたたかな膝の上」





――ねえ、なんで私は病院に行かなきゃいけないの?

――体の悪いところを治して、元気になるためだよ。

幼い頃、北条加蓮は幾度と無くその問いを繰り返し、そして同じ答えが帰ってくる度、表情から温度が失われていった。
もし加蓮がもう少し馬鹿だったら、もう少し非合理的だったら、そのまま吐き捨てていたことだろう。

そんなことは知っているよ。馬鹿じゃないの?

ふと、回想することがある。
もし小さな頃に、1人でも自分を見てくれる人がいたならば、今の自分はいただろうか。
――いや、より正確に言えば、「ちゃんと自分を見てくれる大人がいてくれたら」だ。
同い年のあの子はちゃんと自分を見てくれて、自分を叱ってくれて、自分を励ましてくれたのだから。
……まあ、小さい頃に喪ってしまったけれど。

自分なんていなくなってしまえばいいと。
いつも思い続けていた。
一度だけ口にしたことがある。両親の目の前で。
その瞬間、父親は憤怒で赤くなり、母親は泣き崩れた。
声色は違えど2人とも口を揃えて叫ぶ。
なんてことを言うんだ、と。
母親が悲痛な顔で叫んだ。
そんなこと言わないで、お母さんが悪かったから、と。
父親が怒鳴るように言った。
そんなことを言わないでくれ、頼むから、と。

幼き日の北条加蓮は両親の変貌に驚きつつも、奥底では心が鉄柱となって冷えていくのを体感していた。
それと同時に、少なからず持っていた親への信頼に拳をぶつけられた気持ちになった。
そんな言葉が欲しかったんじゃないのに。
私はただ、教えて欲しかっただけなのに。
病院に通ってまで、両親を泣かせてまで、自分が生きている意味を、その価値を――。

……。

…………。

「戻りました〜」
「あ、お帰りなさい、菜々さん」

曇の日の、夕暮れの事務所。
勢いよくドアを開けたウサミン星人こと安部菜々は、すぐにバツの悪そうな顔をした。
出迎えてくれたのは、いつもの穏やかな笑顔の高森藍子と。
彼女の膝の上で、安らかな顔で眠る少女。

「……お、起きてませんよね?」
「大丈夫、みたいですね……あはっ。加蓮ちゃん、1度眠っちゃったら、なかなか起きないから」
「それならよかったです。ふーっ」
「大丈夫ですよ。もし起こしてしまっても、加蓮ちゃんは怒らないと思うから」
「それは藍子ちゃんにだけですよ〜。ナナがやらかしたらまたどうイジられるか」
「もう……いつも、加蓮ちゃんがすみません」
「あっ、いえいえっ、藍子ちゃんが謝ることでは!」

いつか加蓮と藍子を伴ってサウナに行った時、菜々は2人を姉妹みたいだと称した。
加蓮が姉で、藍子が妹。
ちょっと捻くれ者ですぐ口先を動かす、けれど妹想いで必要なタイミングを見極めている姉と。
マイペースでのんびり屋さん、時には菜々をも巻き込んでグイグイと突き進む妹。
でも、今のこの構図は。

「今日は藍子ちゃんがお姉さんですか?」
「お姉さん、ですか……?」
「ええっと、ナナから見れば、2人は姉妹みたいだな〜って。いつもは加蓮ちゃんの方がお姉さんに見えるんですけどね」
「加蓮ちゃんがお姉ちゃん……それ、すごくいいかもっ」
「でしょでしょ? ナナもいつも助けてもらってますよ」
「……菜々さんの方が年上なのに?」
「藍子ちゃんまで!? ナナは17歳ですよ!?」
「ひゃうっ。な、菜々さん、菜々さん、しーっ! さすがに叫んじゃたら加蓮ちゃんでも起きちゃう……!」
「おおっと。お口チャック!」
「……zzz」
「大丈夫……みたいですねえ」
「その、ごめんなさい。私が16歳で、加蓮ちゃんも16歳で、菜々さんは17歳だから」
「そ、そうでしたね。あは、ははは」

前に加蓮が言っていた。藍子も菜々のことは知っていると。
それでも藍子は加蓮とは違い、積極的に話題にあげようとはしない。むしろ自分が失敗したとばかりに俯いてしまっている。
そんな姿に菜々は、いつもとは反対側の口端を上げた。
この3人で行動することはよくあるけれど、実のところ、加蓮抜きで藍子と話したことはあまりない。
加蓮と藍子はよく一緒にいるし、自分もまた加蓮と共に現場へ向かうことがあるが、自分と藍子となると。
――少し考えて、菜々は結局、いつものように言葉を弾ませることにした。

「加蓮ちゃんがよく、藍子ちゃんの膝の上は最高だって言ってましたけど……実物を見るのは初めてですねぇ」
「最近は私も加蓮ちゃんも忙しくて……たまに、お休みできる時があればいいんですけど」
「加蓮ちゃん、すごく気持ちよさそうに眠ってる……。な、ナナも後で試してみていいですか?」
「私はいいんだけど、加蓮ちゃんがきっと駄目って言うから」
「あちゃあ。しょうがない、ならナナも可愛い妹分に譲ってあげましょうか」

そこまで喋って、菜々は自分の喉が乾いていることを自覚した。
いつもは帰ってくるなり藍子が飲み物を入れてくれるけれど、今日は見ての通りだから。
自分で給湯室へ向かい、ついでに藍子の分のオレンジジュースを指の間に挟んで。

「ありがとうございます、菜々さん」
「いえいえ〜。メイドといえばこのナナですから!」
「ごくごく……ふふっ」
「それにしても藍子ちゃん、少しお疲れですか? 最近は暑いですからね〜、熱中症なんてなったらシャレになりませんよ!」
「あはっ、気をつけます。……今日は、お仕事ではなかったんですけど、ちょっと」
「ふんふん」
「加蓮ちゃんの付き添いで、病院まで」
「ああ……」

加蓮は今も定期通院をしている。
本人は大丈夫だと言うが、プロデューサーを筆頭に周囲が促し続けている為だ。
菜々も、そう思う。
十全にいてすらどこで落ちるか分からない業界だ。うまくいっているのに、身体の問題に阻まれてしまったのでは、どれほど筆舌に尽くそうともやりきれない思いが生まれてしまうだろう。
まして、加蓮の並ならぬ努力を知っているからこそ。

「Pさんの付き添いの方が加蓮ちゃんも喜ぶと思うけど、今日はお忙しそうだったから」
「あー、ごめんなさい。午前はナナに付き添ってもらってて。それに、藍子ちゃんが付き添いでも喜ぶと思いますよ?」
「そうですか?」
「加蓮ちゃんを1人にしたら、絶対に行かないでしょうし」
「……ふふっ、そうですね。私も、お役に立ててるのかな……」

そう微笑んで、藍子は加蓮の髪を撫でる。
今日は妹分な彼女は僅かに身動ぎして、少しだけ寝返りを打った。
いつも色々な表情に彩られている顔には、屈託のない少女の寝顔。
藍子は緩やかに瞬きをして、そして目を細めて、くすっ、と笑った。

「加蓮ちゃんも、もっと素直になればいいのに……」
「あー、ナナもそう思います。イジるのやめてくれたらナナも嬉しいんですけどねえ」
「やめてあげてって言い続けているんですけど、加蓮ちゃん、すごく楽しそうだから……ごめんなさい、菜々さん」
「だから藍子ちゃんが謝ることじゃないですって! 悪いのは加蓮ちゃんです!」
「……そうだね。悪いのは、加蓮ちゃんです」
「加蓮ちゃんのアホー」
「ばーか。あはっ」

起きていたら何を言われるか分かったことではない、と思いつつも、菜々も藍子もアホばかと繰り返す。
そしてお互いに顔を見合わせて、ちろっと舌を出すのだ。
藍子の膝の上で、寝息が止まったことなんて、気付かないフリをして。
ひとしきり言い終わった後に。
言葉もなく菜々が給湯室へ歩いていき、藍子が愛おしそうに加蓮の髪へと手を入れる。
おつかれさま、と。
口の動きだけで伝えた文字は不思議と言葉にならなかった。
言葉にして伝えたい、と藍子は思った。

……。

…………。

夢の世界から帰ってくる直前、じゃあね、と誰かに言ったような気がする。
見知った顔のような、そうでもないような。深い霧の向こうに輪郭だけが浮かび上がったように、ぼやけている顔へと。
誰だろ、と口がひとりでに呟いて、そして加蓮は目を開けた。
まず眩しさに驚いて、次に吐息を感じた。最後に、自分があたたかさに包まれていることを知った。

「……おはよ、藍子」
「おはようございます、加蓮ちゃん」

よっ、と頭を起こす。すっ、と藍子が頭を引く。
視界の隅で、ちょっぴり残念そうに眉を八の字にしているのは……深くは考えない物として。
立ち上がって、ん〜〜〜〜〜、と背伸びをする。
体は何の音も立てなかった。

「あれぇ? 体、けっこう凝ってると思ったんだけどな」
「加蓮ちゃんが眠っている間、できる範囲でマッサージをしていましたから」
「そうなんだ。ありがとね」
「加蓮ちゃん」
「ん?」
「私は、藍子ですよ?」
「……ぷっ、あははっ。寝言にマジレスされても私が困るって、あははっ」

そして給湯室の方から菜々が戻ってくる。うっさみーん♪ なんて挨拶代わりの言葉はいつものようにスルー……いや、年甲斐もなく何やってんのなんて言ってみて、いつものように菜々がぎゃーぎゃーと喚いて。
もらったジュースは、いつもより少しだけ甘かった。
苦手な味ではないけれど。

「……あ、そうだ。ね、藍子。菜々さんでもいいや。ちょっと聞いてみたいんだけどさ」
「はい、なにですか」
「私さ、なんで病院に通わないといけないと思う?」

寝起きだからか、いつもとは違う意志が口を動かした。
それは自分の心を掘削するような、耐え難い行為の筈なのに。
抵抗も痛みもなく、唇がカサカサになることもなく、すっ、と言葉が生まれた。
受け止めた藍子は。
ほんの少しだけ考える素振りを見せて、心配そうな顔……それと、微笑をいっしょに浮かべて。
ちょっとだけ悩んだ菜々は。
まるでしょうがないなぁと言わんばかりにやれやれと肩を竦めて、少女のような笑顔となった。

「加蓮ちゃんのことを心配に想う人がいるから、ですよ」
「加蓮ちゃんを大切に想う人がいるからですね! キャハッ☆」

「……………………そっか」

もし藍子みたいな幼馴染がいたら自分はもうちょっとマシになっていたかもね、とか。
菜々さん、少女って2X歳が何言ってんの、とか。
いつもの自分だったら軽口を叩いていたかもしれない。
今の自分は?
うん、と大きく頷いて、飾らない笑顔になるだけ。

「ありがと、藍子、菜々さん!」



掲載日:2015年5月30日

 

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